2021年7月12日月曜日

お金の話、コストの話

 仕事がら、助けを求めてこられる人や何かを教えてほしいと来る人は多いのですが、基本的に私はそうした人が真剣で熱意を持って来てくれるなら利益などは考えたことがありませんし、持ち出しでも不満を持ったことはほとんどありませんでした。

でも、それを利用しようとする人がいることもまた事実です。とはいえ、私は基本性善説で動いているので、大体が終わった後に利用されたことに気がつきます。世の中の標準的感覚でいえば馬鹿です。でも、それはそれで性分と諦めている部分もありますが、年とともに段々色々と無理が利かなくなってきました。

何だかんだいいつつも今まで色々赤字前提で活動してきたし、それ自体後悔もしていないけれど、そろそろ限界を超えすぎたかな、と。労力的な赤字はまだ大丈夫だけど、資金的な赤字はもうそれを産める労力を最初から見込む覚悟できるほど体力的にも余裕がなくなったな、と。宗教者でも霞で生きては行けないわけで。この辺が辛いところですね。若い頃はそれでも無理が利いたので、赤字が出た分、他の仕事を増やして何とかしてきたわけです。ようやくそれができない年齢になってこんなことをまじめに考え始めたわけです。

どうも日本人は正当な報酬や必要経費(当然の話として時としてそれは高額にもなりうる)ですら認めず、お金に拘らないことが美徳のように考える人が多数派を占めているように感じます。

何というか、前述の多くの人たちは本当はお金を欲しがっているくせにお金を悪者にしたり、お金を汚いもののように扱います。特に日本人はサービスにお金を払う習慣が歴史的に乏しいので、形のないものや、本質に形がないもの(例えば知識など)に料金が発生することを殊更悪者扱いしたりもします。

私は教職員としての生活も長かったし、色々な教育機関で校長など、経営側にもいたので実感するのですが、例えば法外な価格の講座なら非難されて当然ですが、いくつもの講座を希望した場合に結果として高額になると「高い」と非難されることは良くありました。だったら削れば良いのに、と思うのですが、どうも「目の前のサービスは削りたくない、お金は節約したい」という人は多く、そこに「運営側のコストがどれだけか?」などということは度外視で自分の欲求だけで考えられてしまうのです。これは、他のサービスにおいても、よく見られる現象だと思います。また、そうした事例を第三者的に眺めながら外野から「こんなにかかるなんて……」などと非難する人もコソコソ出てきます。そうしたことを今まで色々な人で見てきて言えることは

「お金のことに一見潔癖症的な人ほどお金にとらわれている」

ということです。これを言い換えれば

「そういう人ほどお金がなくなると深刻になる」

とも言えます。

逆に言えば、私も法外な値段を吹っ掛ける商人は大嫌いですし、時として正面から敵対しますが、どんなに高くても適正価格なら納得して支払いますし、それに文句を言う人がいたら「あなたが間違っている。コストを考えなさい」と言います。もちろん、実体のある商品に関してでも、サービスに対してでもです。

それに私は阿漕な商売などでなければお金を稼ぐことも、お金自体も全面的に肯定しています。そしてコストは誰の利益でもないので、それが例え高額であろうとも正当なコストを請求するのは当然だと思っています。(と、いいつつ、前述のように今まで経費持ち出しが多かった事を指摘されれば肩をすくめるしかないのですが……)逆に言えば、正当な理由なくコストが明らかにできない実費は詐欺です。また正当な理由があったとしても、その実費が正当であるという説明をする必要はあるでしょう。

私にはそういう意味での「お金に対しての潔癖症」というのはまるでありません。

その上で言えば、私自身、現実に病気になり、仕事もできず、当たり前ですが収入が0になり、役所の方から生活保護を勧められるほどに困窮したときですらお金がないことで深刻な気持ちになったことがありません。もっと言えば、少なくても私はお金に振り回されて生きたことは一度もありません。どんなにお金がない時でも、事業関連で億単位のとんでもない借金を抱えた時でも、深刻な気分になったことがありません。


これって、お金に対して潔癖症の人と私、どっちが本当はお金にこだわっているのでしょう?もっと言えばどっちの方がお金に支配されて生きているのでしょうね?


それで、最近思うのが、私が人に望まれるサービスを提供するに当たって、最低限のコストは最初からきちんと請求しよう、と思い始めたのです。魔女関係でもそうです。今でも私は魔女が魔女志願者に手ほどきをするに当たってそこに利益が存在してはいけないと思っています。これはやはり死ぬまで変わらないと思います。しかし、今までは完全無償どころか教材費など全部持ち出しでやっていました。しかしその結果、最後までそれに応えてくれた人は数えるほどしかいませんでした。とはいえ、今まではそれで私が納得してやってきたことだから良いのです。しかし、前述したように私もだんだん無理が利かなくなってきました。そこで思ったのが

「私が無理をして、途中で続けられなくなったらかえって迷惑をかけるのでは?」

という事でした。

なので、「School of Witch」でも必要経費を受講料としてお願いすることにしました。これからは何を始めるにしても持ち出しはなしにしようと思います(とはいえ、実は今の段階では受講生の方にも色々協力をしていただきながら手作りの運営をしているので実費の一部はこちらで負担しています。でも、これもシステムが完成したらコストから考えて適正な受講料になる予定です)。それが逆に私の提供するものを利用してくれる人を途中で放り出したりしないですむ方法になりますし、やがて私亡き後、跡を継いでくれるであろう人たちにいわれのない負担を受け継がせなくてすむということにもなります。この最後のは実はとても大事です。

自分が死んだら全て終わり、ならばどんな馬鹿なやり方でも自由です。でも、自分が死んだ後も何かを残そうというなら、それを受け継ぐ人に不要な負担を残さないようにするのも始めたものの責任です。

コスト計算もなしにサービスにお金がかかることを表でも裏でも非難したり、それ以前に悪く思ったりするだけでも、そうした人は基本的に自覚の有無は別として無責任ですし、自分のやっていることが所詮自分の死で全てが消える程度と評価している人なのです。そしてそういう人は当たり前ですが、未来に責任を持つ気がないのです。

こういいきると反論したい人は沢山いると思います。でも、お金の価値は時間が形を変えたもの、ということを考えれば、どんな反論も意味を失うのは明らかです。

2021年7月11日日曜日

神・女神の御姿

 まれにですがまったく別々の人たちから同じ質問を頂くことがあります。今回もそのようなことが3件続けてありました。

「神は簡単に姿を見せない。見せるとしたら服の一部や親しい人や知人の姿で現れるという話が本当か」

という質問でした。

これに関しては私は「経験上違う」と即答かつ断言しました。本当の神や女神はオリジナルの姿でおいでになります。実際、私は神ご自身が自画像を描いてくださったのを見ていますし、許可を頂いて写真も撮ってきました。そしてその自画像はそれまで何度か拝見した神のお姿にそっくりでした。でもその自画像と似た知り合いなどはいませんし、その神様とご縁のある方に見てもらっても似た人がいるという話は聞いたこともありません。

ではなぜ、見え方が違うという話が出てくるのでしょうか? それは霊能力等、そうした本来見えないものが見える能力のある人は、その人の合わせられる波長(周波数みたいなイメージ)によって見えるものが違うところから来るのだと私は考えています。ですから、上記の説は神と思って違うものをみている場合の話なのではないかと思います。本当に見える人たちの中でも、自分が何をみているか正確に分かっていないのに、なまじしっかり見えるものだから早とちりして確信を持っている人が多いのも事実です。逆に言えば、一度本当に神や女神を見ることができれば、その後は間違いようがないと思います。

ところで話はずれますが、この波長の問題というのは面白く、見える人であることは前提とすると「見やすい波長は人によって異なる」という事実があります。

本当はもっと細かく色々ありますが説明を簡単にする為に物凄くラフな分類をして説明すると

神・女神

  ↑

人間の霊体

  ↑

動物霊

と、いう序例があるとします。ここで、動物霊と波長があう人はその上を見る事ができません。しかし、ここで、人間の霊体が見えるように(つまり上手く波長を合わせることができるように)なると、今度は人間の霊体ばかりを見るようになります。動物霊は「見る気なら見える」という状態になります。そして神や女神が見えるようになると今度は人間の霊体も「見ようとしてみる」という感じに変わってきます。

ようするに、序列が上のものが見えるようになると基本的にそこに波調を合わせようという状態になり、それより下の序列のものは意識しないと見えにくくなるのです。もちろん、意識すればちゃんと見えます。

とはいえ、実際問題として、最初のご質問にあったような説をお話になる方にこの説明をすると多分怒られます(笑い

でも、オカルト関係に関わらず、parapsychologyやmetapsychologyといった日本ではあまりなじみがないけれど国際的には一般的な学問分野でも、一般論としてこのような考え方があるということは事実ですので知っておいて損はないと思います。

2021年7月9日金曜日

魔女の質問箱

Oriental WiccaとSchool of Witchのサイト更新や手直しに追われてこちらのブログはすっかりさぼってしまっていました。

さて、このOriental Wiccaのサイトは最初は結構気楽に今までのサイトの文章を少し手直ししてつくればよいだう、くらいの気持ちで始めたのですが、始めてみたらとんでもない、文章が古くなっていたり、今の時代にそぐわなくなっていたりで大幅改訂を越えて全面改訂が必要なものがほとんど。結局位置から作り直すくらいの仕事になってしまいました。

しかし、その作業が一段落してから見直すと、中身が大幅にアップトゥデートされたとはいえ、内容の目新しさは少なくても目立つ感じにはありません。「30周年を謳っていながらこれではなぁ……」と思い、3分ほど思案。そして

「ああ、そうだ。この30年の間で色々な形で応えてきた質問と回答をまとめてみよう」

と思い立ちました。

ところが、実際始めてみるとこれが結構難しいのです。この手のQ&Aのコーナーというのは面白いコンテンツである反面、ちょっと独りよがりになると途端につまらない物に成り下がります。2~3本書いてから「どうしようか?続ける?全部やめる?」としばし考え込みました。しかし、しばらく考えてから「30年という期間に受けていた質問と回答の中には多少は役に立つものもあるだろう」と急に吹っ切れて続けることにしました。

しかし、これは本当に回答者である私の考えが読み直すと結構強く前面に出ていて「うーん、これでいいのか?」とまたちょっと考えました。とはいえ、考えてみたらそもそも私は自分が書いた文章をあまり読み直すタイプではありません。「自分で読み直さなければ自分は恥ずかしくない!」という真理を発見するに至りました(笑い

そんなこんなで、このコーナーしばらくは続きそうです。でも、ある程度たまったら「私家版Witchcraft Q&A集」くらいにはなりそうな気配です。

2021年6月7日月曜日

新ホームページ

 Oriental Wiccaの30周年を記念してホームページのリニューアルと新規ドメインによる運用、Oriental Wiccaによる魔女の通信講座「School of Witch」のサイトの新規ドメインによる運用が開始されました。

サイトアドレスなどは

Oriental Wicca

School of Witch(魔女の通信講座)

です。

 Oriental Wiccaのホームページはかつてのホームページの簡単なコピペによる移行をすればいいや、とタカをくくっていたら

「ん?この原稿10年前?」

「え?これって……20年前……」

「10年前にやめたものについて『これから頑張るっっ!』と書いてある……」

等々。

とてもそのままではアウトな内容でした。

さてここから改訂作業。ところが年末の大片づけをしている時についつい手にした本を読み始めてしまうように、全然進まない……

結局、かなりの部分の書き直しになりました。

逆に「祈り」についての関連文書はほとんど直しなし。こういうところは昔も今もぶれていないな、と妙に納得したり、進歩がないのかと不安になったり(笑い

そんなこんなでこの数日、改訂作業に忙殺されていましたがようやく昨晩完成、本日ツイッター含めいろいろなところで告知させていただく運びとなりました。

ただ、時代にあわないものなど大幅にカットした部分もあるので、これから少しづつ記事を足していこうとしみじみ思いました。

2021年6月4日金曜日

オーラ、霊能力など

「魔女になるとオーラが見えますか?」

「魔女になると霊能力が身につきますか?」

と、いう質問を受けることがあります。

結論から言えば、

これは「魔女になると箒で空を飛べますか?」

と、いう質問と大差ありません。魔女になったからといってそういう能力が身につく、などということはありません。

ただ、箒で空を飛ぶのと違うのは、オーラを見たり、霊能力を身につけたり、ということをしている人は実際にいる、という違いはあります。

これらの能力を持っている人は、生まれつきこうした能力を持っている人が多いようです。また、修行や訓練をすることでこれらの能力を身につけた人もいます。しかし、これは「魔女とは無関係」です。魔女の訓練や修行には基本的にそういう訓練や修行は通常の場合ありません。もちろん、そうした能力を元々持っていたり、何かの拍子に身につけてしまい、その力に振り回されてしまっている人に「力のコントロール法」を教える事はあります。また、中途半端な能力でかえって不都合がある場合はその能力をさらに強める訓練をしてコントロールほうを教える事もあります。

繰り返しますが、これは魔女とは基本的には無関係です。魔女でもそうしたことをしない人も多くいます。私に関して言えば、私自身がたまたまそういう技術を知っているから必要ならばそれに応じてお教えするくらいで、それだって積極的に、ということはありません。ましてや霊能力を身につけたい、という人に手ほどきをする、などということはまったく無意味で無価値だと思っているので、方法は知っていても(知らないとコントロールを訓練することができないので)決して人に教えたりはしません。

ちなみに悪徳商売をはじめて儲けよう、というのでなければ霊能力というものは邪魔になることはあっても役に立つというものではありません

時々、特に占い師の方やスピリチュアル系のよく分からないことをしている人に多いのですが

「自分は霊能力がある」

「自分は人に見えないものが見える」

など、簡単にまとめれば

「自分は特別な力を持っている」

と確信している人がいます。自分が確信している分にはその人の自由ですから(例えば、自分が「誰もが認める美少年や美少女だ」と信じていても人に迷惑をかけなければ問題ありませんよね?)、別に構いません。

ところがそうした人たちで困るのが「自分以外もそれを当然のこととして認めている」という確信の元、話を振ってくる人たちです。また、それによって人にえらそうに講釈を垂れて不安にさせたり、謎の優越感に浸ったり、それに見合う尊敬と尊重を求めてきたりする人もいます。これは本当に厄介ですし、害悪があります。そもそも、自分でそう信じている人というのは大抵は、いえ、私の知る限り全員が

「何もそうした特殊能力がない人」

というのが現実です。現実的な社会での強みがなく、大した努力もせず、自分の言動に責任を持てないのに自分が責任感のある人だと信じていたり、そうした人だから誰にもまともに相手にされないのに周りが悪いと思っている人などが「最期の拠り所」(最「期」は誤字に非ず)としてそうした特殊能力にすがっている、というのがそうした人たちに程度の差こそあれ共通するパターンです。私のような仕事をしているとそういう人に(最近はコロナのおかげで激減していますが)毎月数人は裂けていても出会ってしまいます。そうした人に「私たちは……」と同類に扱われる苦痛といったら……

思わず「私はあなたのような妄想もないし、幻聴もないし、幻覚もありません」といいたくなるのを抑えるのがどれほど大変か、その素晴らしい想像力で察してほしくなります。

霊能力など来特殊能力は上記のようですが、オーラとなると話はちょっと違ってきます。

オーラを見るということは、それが人でも、ものでも、動植物でも健康状態や生命力をみるという意味で役に立つ事があります。ですから、オーラの見方、は私も人にお教えすることが結構あります。

ただ、この「オーラが見える」というのも問題がないわけではありません。

特に、生まれつきオーラが見える人は「オーラが見える」というだけで自分には特殊な能力や才能があると勘違いしてしまう人が結構いるからです。

また、かりにオーラが見えてもそれがどういうことを意味しているのか細かい事を判断するのは相当の知識と訓練が必要ですし、ましてやオーラを調整するなどというのは他のエネルギーワークなどが完全にできていないと話になりません。オーラの調整は基本的にエネルギーワークですから「オーラが見える」というだけではまったく話にもならないのです。

ところがテレビなどの影響でしょうか、「オーラが見える」というだけで「オーラの調整をします」などといって怪しげなことをいったり、したりしている人が最近増えてきているような気がします。これは何も役に立たないどころか、かえって悪化させてしまったりすることのほうが圧倒的に多いのです。ちょうど、「解剖図を覚えたから」といって素人が「手術をしてあげます」と言っているようなものなのです。

どんな能力も、どんな力も正確なコントロールできてはじめて「使える能力」といえるのです。これは当たり前のことで、たとえば自動車を動かすことは、キーを回して、アクセルを踏めば小学生でもできますが、きちんと運転することはできないのと同じ事なのです。

逆の例もあります。きちんとオーラが見えているのに、それが何だか分からず「自分はおかしくなっている」と悩んでしまっているタイプの人です。こうした人は本当に気の毒です。ただ、妄想タイプの人たちと違って自分から話に来てくれないのでなかなか手助けさせていただく機会がないのも事実です。

2016年に「立て続けに何件もこうした質問を何人もの方からお受けしたので、一度私なりの考え方を書いておくのもよいかな、と思って簡単にまとめてみました」と断って書いたものに加筆訂正をしましたが、今となっても削る部分はなかったのでいつでも同じだな、としみじみ実感しました。

2021年5月30日日曜日

伝統というもの(3) ~新しいものは全て謀叛である~

伝統は上書きされるものではなく、付け足され続けるものだ、という話を書きました。ところで魔女を名乗る人の中には時々妙に「自称革新派」のような感じの人が出てきます。

「自分たちが新しいものを創りだす」

「自分たちが今までの古い体質を打破する存在だ」

というような感じです。

これが伝統に新しい物を付け加えていく、という意味なら素晴らしい話です。しかし、こうした人の魔女観をよく聞いていると、必づしもそういうわけではなく、どうも海外で多い「魔女=rebel」というイメージがメインになっていることが多いようです。これは国の内外を問わず、私が実感してきた中でもそうした考えを声高に主張する人が現れては消え、また現れては消え、という歴史の繰り返しだったような気がします。

そして、そういう人はどの時代であっても、それを誰かから批判されたり、あるいは疎外されたと感じたりするほど、それこそが「自分たちが本物である証拠」という感じになってしまうことが往々にありました。

もっとも、これは魔女に限らず、どんなジャンルでもそういう思いに突き動かされる人は存在してきましたし、そうしたカルト(否定的な意味ではありません。伝統について(2)を参照)やセクトが現れては消えて行ったのも歴史の中でよく見かけるもので、それと同質のものなのです。日本の学生運動や市民運動(これもよくわからない言葉ですが、それはさておき)の歴史などを見ても、同様の波を見る事ができます。

私自身、若気の至りで10代後半から20代前半の頃、蘆花の言う謀反人気取りで愛国ゆえの左翼活動をやっていた事もありました。だからジャンルを問わず革新的な考え方にそれこそ熱病のように浮かされる心情はとてもよくわかります。分かるどころか、それはそれは、痛いほどに理解できます。

こうしたものは麻疹のようなもので20歳前後までにかかって、そして卒業するのがある意味健全なのだと感じます。今そうしたものに「かぶれる」対象がどのくらい世の中にあるのか?という問題はありますが、もしそうできる対象があるのなら、それはそれで若いうちにしっかり「かぶれて」おくのはぜひ経験しておくべきことでしょう。でも、そうした若さゆえの熱狂のようなものに動かされ、酔っていてもよいのは「やはり若いうち」なのだと思います。ある程度の、つまり青少年という年代ではなくなってからそれをやっているのはちょっと厳しいものがあります。砕けた言い方をしてしまえば

「いい年して、しかもこの時代に、というのはダサくて痛いでしょ」

という一言につきてしまうのでしょう。麻疹と一緒で大人になってからだと重症化して後遺症を残すような感じかな、というのは言い過ぎと言われるかもしれませんが正直な感想です。

閑話休題。

結局、反逆とか謀反というのは、絶大な強敵が「体制として存在すること」が必要なのです。それに徒手空拳で立ち向かう「自分のドンキホーテぶり」に無自覚かどうかは別として酔っているからこそできる部分というのも結構あると思うのです。例えば、海外の魔女ならその流派を問わず、キリスト教という絶対的な体制があるわけで、だからこそ「反逆者としての魔女」つまり「魔女=rebel」というイメージが成立しうるわけです。そしてそれゆえに、伝統に抗う事も反逆にも似た感情に流されて行くのでしょう。

ところがそもそもの話ですが、魔女に限っていえば日本ではそれができないのです。なぜならそれほどの強敵がそもそもいないからです。

さらにいえば、魔女に限らず、日本ではこうした革新的なものは「できないに等しいくらいに難しい」のです。だから、政治活動でさえも戦後から昭和の後半くらいの時代のような先鋭化ができなくなったわけです。そもそも学生・市民左翼運動がそれなりに存在しえたのは中曽根政権までです。逆に言えばそれ以降の自民党政権などは「反逆や謀反の対象」として相手不足になってしまったからなのです。

ましてや魔女の世界で、魔女同士で、伝統と革新などというのは、ちょうど思春期の子どもたちに見られるあの背伸びしがちな言動や態度が過剰に出ているようなものなのです。

なので、今日本で反逆者は謀反人になるのは極めて難しいと思います。ジャンルを問わず、ですが。そうした話題を考えるに思うのは、誰がどの分野であっても「自分の中に革新というものがある」と思うなら一度、徳富蘆花の『謀反論』などを最低限読んで欲しいと思います。そして反逆者、謀反人になるには芯が通っている上で命がけでの覚悟すら時として要求されるということを一度は学んでほしいと思います。

ただ、現代日本においてそれほどの対象が今の世の中にはほとんどない、ということもわかって欲しいと思っています。

(それはそれで私にとっては心底寂しいことなのですが・・・)

私自身、革新から保守へと自分自身が変節していく経験をしました。しかし、それは決して芯がぶれたわけではなく、成長していく中で

「方法論として変わっていった」

にすぎません。

もしかすると革新から革新的保守、過激思想から過激な穏健派への成長という感じなのかもしれません。この辺の感覚は(1)(2)とこのブログで書いた私の伝統というものの理解を参照して頂けるとわかっていただきやすいかもしれません。

これからも、それこそ世紀をいくつ超えても、国内で、あるいはもっとグローバル化された時代には世界で、同じように「自称革新派」の人達は様々なジャンルで出てくるでしょう。そうした人たちは自分の芯がどこにあるのか?ということを問い直してくれればいいな、と思っています。そして変節を恐れず、その芯に忠実にあって欲しいとも思います。

そんなことを話、考えながら

「私もまだまだ老いるわけにはいかないな」

とちょっと思いました。

ともあれ、徳富蘆花の

「新しいものは常に謀反である」

という言葉の深さと重みをしっかり噛みしめつつ、また、若い人たちと一緒に噛みしめながら、私自身まだまだ「謀反人」であり続けたいな、とも思うのでした。
本当の謀叛は歴史に跡を残します。そしてまたその上に次の謀叛が刻まれるのです。その繰り返しの中で伝統は新しく進化していくのです。

2021年5月26日水曜日

伝統というもの(2)~僕らの世代の敗因~

 前回「伝統とは常に更新されなければならない」ということを書きました。そして、更新されない伝統は博物館の展示物のようなものにすぎず、古典的価値はともかくとして使い物にはならない、そんなものになってしまう、ということも書きました。

伝統を更新することについて多少の具体例を挙げて説明をしましたが、今度はもう少し大きな視点でこのことを書いてみます。

革新もしくはそれに近いキーワードでくくられる人たちの中には「伝統」や「伝統を大事にする人」あるいは「伝統を大事にする行為」自体を否定したり、古いは時代遅れと決めつける人がいます。しかし、それでは伝統を更新するのではなく、単に

「伝統を理解できずに反抗期の子供のようにいきがっているだけ」

というのがほとんどです。

こういうことを言うと「伝統なんかわかっている。その上で自分たちはものを言っている(もしくは活動している)」というような反論をされることがままあります。しかし、そういう人に伝統をどれだけ理解しているのかを具体的に問うと、単純な知識だけで伝統に触れた気になっているのみで、その心や奥深さはまるでわかっていない場合がほとんどです。ほとんどというか、ほぼ例外なく言えてしまうことは歴史的に色々な分野で繰り返されてきたことです。

伝統を不勉強で知らないくせに知ったかぶりで新しい時代を語る人は今までも多く現れては消えて行ったのです。伝統を破壊したり、伝統を新しいものに更新するには、伝統を熟知していなければできないということに気が付かない。そして、そういう人は最後まで気が付かないのです。

こう断言すると反感や反対意見を持つ人は多いと思います。また、私のこういう姿勢を年寄りじみた古臭い考え、という人もいるでしょう。若い頃の私もそういうタイプだったのでよくわかります(笑い

でも、もし私の言うことを否定するなら、例えば、今でも60年安保闘争の学生組織が当時以上に健在でなければいけないということになります。彼らは古い体制(これはある意味伝統と同じです)を否定し、新しい体制を声高に叫び立ち上がっていたのです。では、今現在どうでしょうか。これを見ている人の何割が当時の主役たちのことを支持していますか、と問いかけたいのです。支持している、支持していない以前に、これを読んで下さっている人達のほとんどは「60年安保闘争?歴史の教科書にあった気がする……」という程度でなのではないでしょうか。

これは伝統を無視したり、伝統に対して知ったかぶりして「革新性」や「新しさ」を旗印に伝統に対して戦いを挑んだ人たちの「完璧な敗北」に他なりません。歴史の中に埋もれ、誰にも見向きもされない革新、伝統はまだ「古臭いと言われつつ存在」していますが、その伝統に戦いを挑んだ革新はその存在と記憶すら消し去られているのです。

かくいう私も伝統などを「古臭いもの」と否定し、革新の名のもとに政治活動をしたこともありました。安保闘争の主流派の流れのセクトで活動したり、のちに(これは偶然でしたけれど)当時の全学連の委員長ら幹部だった方と一緒に仕事をしたこともあります。そうした実体験や、生の話、そしてその後の実情などをリアルに体験し、見聞きしてきたわけです。その経験は彼らや私の敗因が「伝統を知らずに伝統に立ち向かったこと」であり「伝統を分かったつもりになっていたこと」だということを色々な角度から検証させることになり、それを痛いほど実感しました。

一時の熱狂は簡単です。

それを創るのも簡単です。

また、それはとても新しく活発で未来に続く素晴らしいものに見える事があるのも事実です。

また大変勢いがあり、華やかにも見えるでしょう。

でもそれは歴史の中に花火のように現れて消えていくあだ花に過ぎないのです。

根のない花はやがて無残に枯れていくのです。

結局、伝統をしっかり学び、伝統の中にしっかりと入り、伝統の堅苦しさやくだらないしきたりなどを経験し、伝統を熟知するという経験をしていない限り、伝統を乗り越えたり、破壊したり、ましてや更新して「新しい伝統を創る」ことなどできないのです。

これは魔女の世界というだけの話でなく、文学、芸術、学術、宗教、政治等々、どんな分野に対しても共通して言えることなのです。そしてそれは歴史がそれを雄弁に語っているのです。

私はあらゆる分野において声高に呼びかけたいのです。

「若人よ、伝統を謙虚に学び尽くし、知り尽くし、そして新しい伝統を創り出せ!」

と。

2021年5月25日火曜日

Witchcraftと日本の伝統的宗教

 Witchcraftが日本の神道的な考え方と近いものを持っている、ということをいう人が少なからずいます。たしかにWitchcraftも神道も多神教であり、自然の中に神性を認める、という意味では「この2つは似ている」と思ってしまっても不思議ではないかもしれませんし、最初そう思うのも理解できます。

しかし、ある程度実践していったり、学んでいったりした上で、なおかつ同じ感覚を持っている人は結局「どちらも分かっていない」というパターンにはまってしまっていると思います。もちろん、元々理解するセンスがない人もいると思いますが、同時に「学ぶ方法を間違ってしまっている」という人も多いのだと感じています。実際ネット上には

「もっともらしい間違った知識」

「いかにも実績がありそうな嘘」

「いかにもしっかりした裏付けがありそうないい加減な話」

などが沢山あります。そういうものに引っかかってしまったら、いくら学んでもどんどんおかしな方向に行く以外ありません。

私がよく使う例ですが、東京から京都に向かって行こうとして「北へ北へ」と向かっていけば努力すればするほど目的からははずれていきます。国道ならば標識があるので「仙台〇〇㎞」などが出てくれば「あ、間違った」と気がつくチャンスもありますが、こうしたものには間違いを気づかせてくれるものがないのではまったらはまったまま、になってしまうのです。

閑話休題

誤解している人や間違って学んでいる人は別として「Witchcraftと日本の伝統宗教などは似ている」と思っている人は、本来のWitchcraftにはついていけないか、あるいはそもそも向いていない人だと思います。

元々私は若い頃、仏教や神道の修行をしていて、結局それが自分の中でどこか納得できず、結局ウイッチクラフトに、という流れだったので最初の頃は自分の中で今までやってきたことと接続できる部分があるかもしれない、と思いつつ、結局はそれが誤解であることにある意味安堵した、という経験があるので「似ている」とはどうにも思えません。

あるベテランの魔女が「英語を話すための感覚的なものと、ウイッチクラフトの適性って似ている気がする」ということを行っていました。これはまさに至言だと私は感じました。

そもそも英語と日本語には大きな共通点があります。

第一に英語はフランス語の、日本語は中国語という他国語の影響を形は違えど大きく受けています。さらに話し相手を信頼しゆだねる部分が大きい、省略形式が多い島国的な言語(これをIsland form:島国形式)という共通点もあります。しかし、それでいて、極端な省略形式を信頼の証とする日本語の形式と大陸言語の相手を信頼しきらないという特徴を併せ持っている英語とは根本的なところでまるで違います。その感じに近いと私はそれを聞いて思いました。

この例を元に考えると、日本語と英語は日本と英国が々島国だから似ている、と決めつけるのと同じような誤解を「Witchcraftと日本の伝統的宗教は似ている」という発想には含んでいるといえるのです。

2021年5月22日土曜日

伝統というもの(1) 伝統はどう在るべきか

何回かに分けて、伝統というものを私がどう考えているかを書いてみたいと思います。

伝統を受け継ぐというのは、簡単にいえば

「先人達が今まで積み重ねてきたものを受け取る」

ということになります。そこまでは誰もが問題なく納得できるところなのですが、問題はその後どうするか、だと私は思うのです。

私の受け継いだ魔女の伝統には

「伝統を削ってはいけない。新しいものを付け足していくもの」

という大原則があります。おそらく明文化はしていなくても同じような原則を持っている流派は多いのではないかと思います。これは

「魔女狩りの時代に先代から受け継いだものを正確に次につなぐ為に恣意的な取捨選択をはさまないという為」

に決められていることだと習いました。そして何かの事情で新しいものを付け足した場合でも元々がどうだったかを残しておくことで何代か先の後進でも元に戻って検討できるようにしておくことが大切なのだとも習いました。

これは非常に大切な考え方で、伝統というものは絶えずその時代に合わせて更新されるべきもので、古臭いものを金科玉条として守っている、というものであってはいけないのです。かといって、新しいものを考えた人の考えが常に正しいという保証もないのでいつでも元に戻って考えられるようにしておく事も大切なのです。それになにより、キリスト教に魔女狩りなどで殲滅しようとされた伝統を命懸けで守った先達の努力を誰かが削ってしまうことは同じ流派を受け継ぐものとしては許されない事なのです。

たとえば、カード占いの意味に「手紙、電報」いうのがあったとします。これはやがて「手紙、電話(時に電報)」と変化し、更に今だったら「メール、チャット、電話」とする方が読みやすいでしょう。このように伝統的なものも時代に合わせて変化させていく必要があるからです。でも、このように「変化させて終わってしまってはいけません。

まづ、元の意味も残しておかないとまた今の私たちが想像もつかない伝達手段が出てきたときに「メール、チャット」などを加えたときと同じように、という前例を残しておくべきだからです。

また、今の時代だからと言って手紙がなくなったわけでも、電報がなくなったわけでもありません。事実郵便局は毎日大量の手紙を扱っているわけですし、つい最近、私も電報を受け取る機会がありました。やはりこれだってなくなっていないのです。だから、本当は、

手紙、電報

→「手紙、電報、メール、チャット、電話」

というように「意味を足していく」のが正しい在り方だと言えるのです。

伝統というのはこれに似たものがあります。わかりやすい例でいえば、伝統的なお香のレシピの中には現代では手に入らない材料が指定されていることも多々あります。こうしたものは、まだ手に入る(しかし、手に入りにくくなった)時代の先人が色々と比較検討をして、代替品となる材料の指定を残してくれていることがあります。そして、現代では元々の材料が原料となる動植物の絶滅などで入手不可能になってしまいその代替品の方だけが現実的なものとして残っています。しかし、だからといって「元々のレシピに上書き」してはいけないのです。今現在使う材料が「元々は何の代替品だったか」ということはしっかりと残しておかなければいけないのです。なぜなら、より時代が進んだ時に、より元の材料に近いものが見つかるかもしれません。また、より効果的な方法が見つかることもありますし、より簡単な方法が作られることもあります。こうした場合でも元になるものはしっかり残した上で、そのどれをどう変化させたかを明示しておくことが大切です。元のレシピが残っていなかったらそうした研究を後の時代にすることができなくなってしまいます。また、元に近づけば近づくほどその材料に求められている考え方の本質が残っているのは当たり前なので、その材料に込められた思想や知識を入手可能性など本質と関係のない理由で「歴史から削って」はいけないのです。

伝統とはこうした更新の仕方よって元々の意味をしっかり後世に伝えつつ新しい伝統が継ぎ足されていくものでなければいけません。これは自然科学でも科学史(数学史、物理学史、化学史等)という形で同じ方法が取られているので、理解しやすい考えだと思います。

このように伝統というものは古いものを大切にしつつ、新しいものを加えていく、しかしそのルーツは大切に残しておく、という形で常に更新されるものでなければならないのです。そうでなければ、伝統というのは、ただの骨董品や古くさい博物館の展示物の様なものにすぎなくなってしまい、使い物にならなくなってしまうからです。

2021年5月21日金曜日

生きる意味、生きる目的

 「生きる目的というのは実は誰にも、いつどのような時でもあります」

このように断言する人がいると

「私には生きる目的がない」

と反論する人が出てくるでしょう。これは当然です。もちろん、しっかりとした「生きる意味」や「生きる目的」を持っている人もいます。でも、持っていない人もいるのは当たり前のことだからです。私自身、20代の頃は「生きる目的」などは全くなく、それどころか「死に場所を探すためだけ」に生きていましたから。極論で言えばこれも「生きる目的」といえなくはないですが、それは「自殺の方法を探している」等と同様に本末転倒でしょう。今回は少し私自身の話をメインにお話したいと思います。

当時の私は、今になってよく考えれば「死にたかった」わけではないのですが「生きていたくもなかった」という気持ちが自分の中で支配的でした。ただ「自殺はどうにも後々損だ」という実感を持っていたのでそれは考えませんでした。なので「死ねる場所としての死に場所」を探していたのです。

もっとも私の場合、少し他の人と違っていたのは「死への恐怖」は全くなかった、ということでしょう。

よく「人間はわからないものを恐れる」と言われますが、これは一面の真理で、私は私なりに「死を知っていた」からそもそも怖れがなかったのです。私がどう「死を知っていたか」という理由は3つありました。

まづ1つ目は「生まれつき霊体が見えていた」ということです。世の中には「透けて見える人とそうでない人がいる。透けている人はぶつかっても大丈夫だけどそうでない人にぶつかると痛い」という認識を持っていたのです。なので5歳くらいの時に「他の人には透けている人は見えていなかった」ということが分かった時はとんでもない、それこそ人生最大のカルチャーショックを受けました。そのくらい霊体というもの事態が「当たり前の存在」だったのです。

次に「断片的ながら前世をしっかり憶えていた」ということがありました。後々になってそれは前世ではなくてもう少し前の過去世だったと分かったのですが、ここで私にとって大事なのは「人生は連続していて一回きりではない」ということを最初から分かっていた、ということなのです。そうなると「死というものは区切りの一つでしかない」という事になります。

そして最後に、これが一番大きいのですが、生後8カ月で小児結核、2歳で小児ネフローゼと18歳までの半分以上を入院していると昨日まで廊下で楽しそうに遊んでいた子供が翌朝死亡退院という場面をそれこそ数えきれないほど見てきました。そして、当時の医療のレベルでは小児ネフローゼの致死率は非常に高く、同じ病気の子がしょっちゅう死亡退院していくのを見ていました。それは同時に自分がいつ死亡退院してもおかしくない、というリアルが毎日突きつけられているという状況ということです。これで死を恐れるわけがありません。私にとって「死とは日常の一つ」であり、恐怖する必要があるものでは完全に無くなっていました。そんな状態だったので私にとって「死を恐れる理由」が全くなかったのです。

そうした幼少年期を過ごすと「死を恐れる」という発想が完全に無くなります。そしてそれは同時に「生きていく意味」も奪います。これは私の個人的な感覚なのですが「生きる意味」というのは「死の対極」にあるものなのだと思います。そして「死」に意味がなくなると「生きる事の意味」自体が薄っぺらく、軽いものになってしまうのと感じるのです。もちろん、これは一面的な見方だと思いますし、そうあって欲しいとも思うのですが、同時にこれは一面の真理でもあると思います。

結局私は「いつ死んでもおかしくない」という周囲の共通認識の下で成長したので、当然両親含め周りの大人は「私の将来」など考えてもいませんでした。当たり前といえば当たり前です。明日生きていることがありがたい、という子供の将来を思い描ける親や大人が世の中にどれだけいるでしょう。一応子供心に何回か抱いた「将来なりたいもの」もすべて「この体では無理」と簡単に終わってしまいましたし、そもそも「毎日コンスタントに仕事をする事自体無理」と決めつけられていたので私自身も「とりあえず今日生き抜くことに集中しよう」となったのでした。そんな状況で「生きる目的」などできるはずもありませんでしたし。

ところが18歳になった時、いきなり全部完治しまして途方に暮れました(笑い

ただ、それまでに高校受験を中心(このことはい連れ機会があれば。私を大のアンチキリスト教にした原因です)にすっかり世の中を信じなくなっていた私はそのまま社会にあまり真っ正面から向き合わず(せいぜい学生運動くらい)、いわゆる「良い学校に行って良い会社に入って……」という一般的に普通といわれる路線とはまったく無縁になってしまっていました。そうなると本当に「今やりたいことをする」くらいしか思いつくものもなく、先を見据えた「生きる意味」というのは全くなくなり、「生きる目的」も当然なくなっていました。

そもそも世間でよくいう「生きる意味」や「生きる目的」のようなものは結局先を見据えて、というのが暗黙の了解で頭についている気がします。そういう意味では当時の私にはまるでそうしたものとは縁がありませんでした。

ただ、どうしても「自分が痛い」「自分が苦しい」は嫌なのでそういう死に方は絶対嫌だな、というのは絶対的なものとしてありました。

そんな感じだったので私が救いではないけれど「何か」を求めて宗教遍歴を重ねたのはある意味当然だったと思います。そうした中で運命的に巡り合ったWitchcraftは自分にとって一番しっくりと来る宗教だったのは間違いありません。ただ、だからといってそれが私に「生きる意味」等をくれたわけでもありませんでした。ただ「死に場所を探すという生き方から縁が切れた」程度の話であり、そういう意味ではそれ以上でもそれ以下でもなかったのです。

やがて、年をとると共に、そしてまた病気が立て続くようになった時、思いもしなかった変化が自分の中で起きました。それは「自分が受け継いだ伝統を自分の代で絶やしてはいけない」という使命感、といえば格好いいのですが、その実

「そんな状態であの世に逝ったら師匠に何を言われるか」

という方が素直な言い方でしょう。

そして、更に年をとる毎に「後進を育てなければ死ねないな……」とか「次の世代の人たちに自分が欲しかったものを残しておかないとな……」等の「今死ねない理由」ができてくるようになりました。

正直私には今も「人生の目的」とか「生きる目的」というのはたぶんありません。このままだとたぶん一生持たないでしょう。私にはただ「死ねない理由」の裏返しの「生きていく理由」があるだけなのだと思います。でも、私にとってはそれで十分なのだとも最近は感じています。結局どれだけ生きるか、という事よりも、どう生きるかの方が重要なのだと感じるのです。

私にとってこの辺りの感じ方というのは、私の考え方に大きな影響を与えています。もちろん全て、ではありませんし、全てに、でもありませんが。どうにもまとまりがよくありませんが、ちょっと振り返りながら書いてみました。

2021年5月20日木曜日

伝統の中の知恵

 第2次湾岸戦争の折り、イスラームの法学者と共に祈った時、話の流れから「伝統がいかに大切か」という話をしみじみとしたことがありました。また友人の仏教僧と伝統をどう活かしていくべきか、などという話で盛り上がることが今も時々あります。

伝統、と一言で言ってもその言葉の持つ意味は様々です。同時に伝統の持つ重みはどの視点で見るかで千変万化ともいえます。

宗教における伝統は色々な視点で診る事ができますが、その大事な一つに「人を育てる知恵の蓄積」という視点があります。宗教の伝統というのは、その宗教に関わっていく人たちが、その教えの中で人間的に成長する為に先人たちが工夫し、見つけ、あるいは創りあげていった経験に基づく知恵の蓄積といえます。今回はこの視点での伝統についての話をしたいと思います。

伝統のある宗教の伝統には、宗教を問わず、程度の差や表現の差こそあれ人格者と一般的に呼ばれるような人を育てる知恵があります。そしてそれはどの宗教でも、その宗教の信仰者には等しく与えられるわけです。その上で、それをしっかりと自分のものにした人が人格者と認められ集団の中のリーダー(その宗教内とは限りません)となる、というシステマティックな知恵の体系があるものです。

このリーダーを育てる知恵というのは文字通りの宗教内でのリーダーという意味もありますが、まっとうな宗教が社会に奉仕することを目的の一つとしていることを考えれば、同時に社会のリーダーたる人を育てるという意味もあります。そもそも本来宗教が考えるリーダー像は、自分が何も言わなくても、周りから尊敬され、この人のようになりたい、それにに続きたい、と思わせるような人格者であることによるものです。その意味では、宗教の伝統がもつリーダーを育てる知恵が等しく信仰者全員に与えられることは当然ともいえるでしょう。

なぜそうしたリーダー像を宗教が求めるかといえば、それはある意味当然のことで「こんな立派な人に自分もなりたい。この人のようになるにはどうしたらいいか?ああ、そうだ。この人の信仰している宗教から自分も学べば良いのだ」というように多くの人に感じさせ、それによってその宗教を結果的に布教する人を育てるためにそうしたリーダー像を求めるのです。

そこにはいわゆる宗教の勧誘のような物は一切介在しません。「そこで学びたい」「あの人と同じところで学びたい」と人に思わせるような立派な人を育てるだけで良い、という至極まっとうな考え方です。そこにはとてもシンプルに「存在自体が人生の指導者」とでもいうべき人格養成が求められているだけなのです。そもそも「学ぶ」ということが「真似ぶ」という所からきていることを考えれば納得のいくことだと思います。

さて指導者という言い方をしましたが、これを説明するために一般的な教師と宗教者との違いを考えます。両者とも同じ「人に何かを教える」ということを行うわけですが、教える内容の問題を越えて本質的に大きな違いがあります。

例えば、学問などの場合は、教師はあくまでも学生よりも上です。だから「上からものを教える」という形でよいわけですし、そうした姿勢を当然求められます。学生の目線に立って、というのが大切だということもありますが、それは生活指導などの話であって、本来の仕事における前提は絶対的に教師の方が上である、という保証が求められるのです。その上で、学生の目線に合わせるのです。

ところが宗教者の場合は常に対等の人間として語ることが求められます。圧倒的な知識量や経験があればあるほど、対等な人間として相手に向かうことが求められるのです。

この違いは、いいかえれば、教師は上に在る上で学生の目線に降りていくことが求められるのに対して、宗教者は「対等の人間として目の前に立つ」という前提の上で、例えて言えば「こんなにも上に立てるだけの人なのに自分と同じ位置にいてくれる」という感動を与えることを求められるのです。人より上に立てるものを身に着ければつけるほど上に立たないようにする事が求められる、という言い方もできるかもしれません。

もちろん、宗教にも知識の部分はあります。当然司祭が後進の司祭を指導する場合は教師的になる必要があるでしょう。また信徒を正しく導く義務もありますからそうした時は教師と々姿勢が求められるのは当然です。しかし、それが本質ではないのです。その辺の「身のこなし方の知恵の集積」がある意味宗教の伝統の中の大きな意味としてあるともいえま。

私は常々、宗教者には、やさしさと謙虚さ、そして決して卑屈にならない強さと自分に対しての厳しさ、それだけがあれば十分だと思っています。その上で教義とか儀式とかその辺は自分の信じる神性に従ってやればよいのです。要はどんな宗教でも宗教者は自分をこのように律し、戒めておけばよいのです。宗教は所詮「人を活かす道」のひとつに過ぎないのですから。

そうした上で、宗教は「人を育てるもの」である必要があり、その「人を育てるための知恵の体系」が蓄積されたたものが宗教の伝統の大きな意味の一つなのです。

2021年5月19日水曜日

精神疾患とWitchcraft

 Oriental Wiccaの通信講座の受講条件の中にも

・精神疾患がある方は悪化させてしまうなどの危険な場合がありますので、

   ①診断名
   ②服用中の薬と量
   ③薬を飲み始めて何年くらいか
  を書いた上で必づ事前にメールでお問い合わせください。

​というものがあります。

これはかなり以前から議論されている話題で、昔からある本にもよく「精神疾患全般にいえることだが、こうした病気にかかってる人は魔術とか魔女とかに関わっちゃ駄目」というようなことが書かれていますが実際どうなのだろう?という疑問は常に存在してきました。

ここでいう「精神疾患全般」というのはちょっと極端すぎると思います。そもそも「all or nothing」で考えるのが間違いなのだと思っています。だからOriental Wiccaの通信講座の受講条件でも「お問い合わせください」というスタンスをとっています。

しかし現実問題というか、この数十年の経験上言えることは「精神疾患を持っている人はWitchcraftに惹かれやすい」という傾向はかなり強くあります。それでも「基本的には、精神疾患の人はWitchcraftの道にかかわらないほうが安全」だということが言えるのも事実です。なぜならWitchcraftの実践していくと(善し悪しはまったく別として)かなりの精神的なストレスを感じる場合もありますし、精神的な変化(進歩など)を経験することがあります。こうした時に精神疾患を持っていると症状を悪化させてしまうことが多いのです。もちろん、問題がない場合もあります。

だからといって「症状やタイプによっては大丈夫です」等と書くと「ではどういうのはOKでどういうのはだめなのですか?」という質問に当然さらされるわけです。当たり前ですね。

でも、これに一つ一つ対応するのはかなり困難ですし、ましてや一般的な基準を明示することなど不可能です。だから、結局面倒なので誰もこうは書かなくなるわけです。そうなると、元々の「精神疾患全般、かかってる人はWitchcraftに関わっちゃ駄目という言葉だけが残ってしまいます。

ところで実際には「精神疾患があったけれど、実践しているうちによくなった」という人もごくごく稀にいます。そうした「幸運な人」が存在するのは事実です。そして、そうした人が「私が証拠です!」という感じで現れると、それにすがりたい人が少なからず出てきます。

しかし、繰り返しになりますがそれはものすごく稀な「レアケース」であり、私自身今までに「数人」しか見たことがありません。

逆に一気に精神疾患を悪化(時には壊滅的に悪化)させてしまった人は多くみましたし、ほとんどだったといっても過言ではありません。そしてなによりも「本人はよくなっている気持で絶望的に悪化させている」というケースが多いのが恐ろしい所です。

結局、結論というか、舞台裏をざっくばらんに言ってしまえば、よく本にある「精神疾患全般にいえることだが、こうした病気にかかってる人はWitchcraftに関わっちゃ駄目」という言い方自体が書き手の手抜きであり、しかし、厳密な書き方をした場合の後の面倒を考えると誰も書きたがらない、という現実があり、それが混乱を招いている、といえるでしょう。

ようするに本来の正しい中間の形、つまり安全という意味、で対処できるだけの知識を持っている人が賛成派にも反対派にも絶無に近いのが問題なのだと思います。だったら「ダメ」という方が安全だし、人を不幸にする可能性の除去という意味で正しいと思います。

たしかに前述のように「でも実際私が」という人もいるわけですが、そういう人は「あくまでも自分がそうだった」というだけだということを謙虚に理解して、自分が最低でも精神医学のきちんとした正しい(最低でも医師免許所持レベル)知識を持った上でしか人には勧めてはいけない、ということを肝に銘じるべきだと思います。

結論としてまとめると、

「実践しても安全なケースでも、それを専門知識や経験(もちろん自分の個人的経験ではありません)、必要に応じて専門家のアドバイスが得られる状態という環境を持った上で監督指導してくれる人の下で以外は危険である」

ということでしょうか。Oriental Wiccaでもこうした問題が起きた時、精神科医に相談できる体制をとっています。

ちなみに私の立場を付け足しておくと、「一般的な質問」で聞かれた時はこうした事情から「やめておいた方が良い」と答えることにしています。

しかし、一般論でなく「自分の問題」として聞かれた時は、きちんと病院で治療をした(しているでも可)上で、私も相手の病状や治療状況がわかった上でならばいくらでも相談に乗らせて頂くようにしていますし、実際そういう方も何人もいらっしゃいました。また必要なら精神科医などの専門家に相談しています。また実際私自身鬱病の経験者でもあります。

このことは魔女・魔女志願者の全ての方がたまには他人事ではなく「自分はどうなのか?」という「自分の問題として」振り返ってみる時間を取るべきです。そういう時間を取ることも「大事な魔女の時間」なのですから。

ちなみに蛇足ですが、もう一つこの問題にはより本質的な大きな問題があるのも事実です。それはWitchcraftが神秘宗教であることから来る問題なのですが、この点については一般向きの話題ではないのでここでは省略します。

2021年5月18日火曜日

『Witchcraftの実用的用語解説集』 (原題『言葉の定義』)

 色々と更新作業をしたり、ものを書いたりしているといつも思うのが「言葉の定義」の難しさです。特にWitchcraftの用語等は私が若かったころと今とでは意味が変化しているものがいくつもあります。

かつては「伝統的魔女」といえばキリスト教以前の宗教に端を持つ(とされる)古い伝統を持つ、そして魔女狩りを経験している魔女の事をさしました。ところが、21世紀に入ってしばらくしてからは「ガードナー以前の魔女」という意味が段々と一般的になり、今では元々の「伝統的魔女」のことを「ペイガニズムの魔女」とか「キリスト教以前の古い魔女」等と別の言葉で表さないと通じなくなってしまったという事などはその良い一例でしょう。

かつて魔女狩りを乗り越え、今の私たちに伝統を残してくれた先達に申し訳なさを感じるのと同時に、それこそ「悪貨は良貨を駆逐する」と言わんばかりに自分たちの存在を示す言葉を奪われた気がしたりもして、強い反発心をかつては持っていましたが、いちいち説明したり、反論したりすることも、また議論の通じない相手と議論をする事にもうんざりしてしまい、今はそういうことにエネルギーを使う気も起きなくなってしまいました。少なくても言葉は自分以外とコミュニケーションをとるための道具と割り切っていくしかないのは時代の常なのでしょう。

閑話休題。

ともあれ、このように伝統的な言葉ですら、時代と共に意味が変化してきます。また、かつては普通に通じた言葉も多くの人にはまるで古語のような扱いをされて通じなくなってくることもあります。しかし、それではどうしても伝えたいことが伝えられない事態にもなります。だからといって、話が通じるように国語の講義をいちいちする訳にもいきません(私は国語の教壇にも長く上がっていたのでできなくはありませんが……)。そうした時、必要になってくるのが「この本では『〇〇』という言葉を『△△』という意味で使います」というような言葉の再定義が必要になってきます。一般的な言葉の意味を活かしつつも、それでは表現しきれない部分や明確にならないところをどう表現するか、がいつも悩みます。

また「言葉の再定義」といえば、既存の言葉に新しい意味を持たせる再定義というものもあります。

このタイプの再定義をしたものでは、例えば「業」と「カルマ」があります。

これは本来は「犬」と「ドッグ」のような関係、つまりまったく同じものなのですが、これをOriental Wiccaでは、

業:今生の因果

カルマ:過去生~今生~来世といったスパンでの因果

と、言うように再定義し、使い分けています。これはあくまでも便利さの追求という事から来るのであまり褒められたものではないと思いますが、それでもこうした再定義によって外来語を生み出してきた日本語ならではのありがたさと思うことにしています。

もっとも、こうした外来語成立というのは明治時代くらいからは特に増えてきているのである意味「日本語のお家芸」とも言えます。


ここでちょっと質問です。自分の答えを考えてから続きを読んでください。

問題:

「科学」と「学問」の違いを述べよ。



いかがでしょうか?

どちらももともとは中国語から入ってきた「学」でしたが、明治時代に日本に英語が入ってきた時に英語の「science」を訳そうとした当時の日本人は困ってしまったのです。なぜなら、その当時は阿片戦争で英国が清(今の中国)に勝った直後でした。そうした時代背景から、

戦勝国の言葉「science」を敗戦国の「学」と訳したらどんな言いがかりをつけられるかわからない、と考えたのです。そこでこの「science」という言葉をよく調べると「natural science(自然科学)」「social science(社会科学)」のように「〇〇science」という使い方をしているのに気がついたのです。そして「この〇〇は分類を表しているから、この部分を『科』と表してしまえば良いのでは!」と閃いた人がいたのでしょう。結局そうした経緯で

「science」の訳語 : 科学

「学」の訳語      : 学問

となったのです。ですから答えは「同じもの」です。そして元々の「学」という単語は忘れ去られていったのでした。今の日本人で「科学」「学問」という言葉は普通に使っても、本来の意味で「学」という言葉を使う人はいないと思います。使われるとしたら意味を広げた上で「学がある」などの用法が残っているくらいです。

これはほんの一例ですが、こうした言葉は実は沢山あります。だから「日本語のお家芸」といえるのです。とはいえ、こうした言葉の再定義は意外と難しいのですが、今後も含めての課題となっています。

先日『Witchcraftの用語集』を書こうと思い、実際に書き始めてみたのですが、書き始めると原題のWitchcraftの用語はキリスト教の用語と混ざってしまっていたり、一般的な英和辞典に出ている意味とは違った意味が多かったり、果ては日本独自で意味が発展してしまったものがあったりで、どうしても「再定義と解説」が必要になってしまいます。結局そうした部分を丁寧に埋めて書いていこうとすると、もうこれは『用語集』ではなくて『Witchcraftの実用的用語解説集』になってしまいそうです。でも、そういう用語集はきっと今後必要とする人が出てくると思いますし、Witchcraftが日本に輸入された初めの頃からを、全てがリアルタイムでないにしても(リアルタイムで当事者だった人たちとの直接の交流などの中で)、大体を体感している私のような世代がまとめていくのは一つの義務なのかな、とも思っています。そしてその用語集にまた新しい意味を加えたり、書き直してくれる人がその後の世に出てきてくれれば良いな、と感じています。

魔女の呪文や祈りは日本語でよいのか? (原題:日本人と外国語)

 私は高校の頃、国語は得意でしたが英語はどうにも苦手でした。中学生の頃は良かったのですが、中学3年生の時に半年以上入院してからまったくわからなくなってしまい、わからなくなったらまったく面白く無くなり「なんで日本に住んでいる日本人が英語なんかやらなければいけないのだ?どうせ一生そんなに使うことはないのに」(将来インターネットなどが現れるなど予想もしていなかった……)とうそぶきながら、完全に捨て去りました。

そんなこんなで私の英語力は年々ひどくなり、高校2年の誕生日に国語の先生に英単語集をプレゼントされたり、高校3年担任だった英語の先生には放課後呼び出され、涙ぐみながら

「正直に言ってくれ… お前、俺のこと… 嫌いか?他の科目はそれなりなのに、英語だけここまでひどいというのは……俺のせいか?」

と言わせてしまうほど追い詰めてしまったり、挙げ句には同じ試験問題で7回卒業試験を受けどうしても30点が越えられなかったので、採点後に先生が無言で消しゴムを手にとり私の名前を消し、

「名前をローマ字で書け、それで30点超えたことにしてやる」

と、言われて卒業させてもらいました。

そのくらい英語はダメでした。

その数年後、ある大学で英語を教えている先生に出会うきっかけがありました。ちょっとしたご縁で、その先生に教えて頂いた(しごきまくられた)おかげでとりあえず、人並みの語学力にしていただきました。ずいぶん後でその先生が英語学のある分野では「謙遜しても世界トップ3」だということがわかり心底びっくりしましたが、人生で出会った先生の中で一番厳しかったと同時に、一番学問の面白さを教えてくれた先生でもありました。その後、その先生の紹介で国文学の先生のところにもしばらくご厄介になったりもしていました。

そのような感じで結果的に比較言語の世界に数年身をおいていましたが、そこで学んだことはいくつかありました。

一つ目は、自国の文化や言語を大切にできない人は外国語をいくら勉強してもまるでダメ、という真理です。自国の言語などを大切にできない人はいくら外国語ができても所詮は「本人が外国語が得意と思っているだけ」で結局ものにならないということです。人間は母国語でものを考えるようにできています。なので、母国語を大切にし、その背景にある文化を大切にしなければ考えるベースがない状態で外国語を弄んだところで、書く内容も、話す内容も薄っぺらく、読解力にしても文字面を追っているにすぎないのです。これでは精々が高性能な翻訳ソフト人間、という感じでしょう。

二つ目は、自国の文化や言語を軽んじるか、あるいは外国のそれを自国のものよりも価値があると思っている人も、いくら外国語ができてもダメだということです。簡単な例を挙げると語学を習うなら全員外国人がよいと思っていたり、外国に行くことがなにより大切(もちろん、留学はどんな場合でも得る物があることは十分認めていますが)だと思っているような人は自国のことを学ぶより、外国語や外国文化を学ぶことの方に、より価値があると思っている傾向があります。こうした人もやはり性税が翻訳ソフト人間です。言語が人と人をつなぐものだということが頭から抜けているのです。相手の言葉を理解し、相手に自分のことを理解させるのに言語だけ立派でもダメなのです。

ずいぶん前の話になりますが日本の外交官が柿本人麻呂について尋ねられて、まったく答えられずに国際的な恥を書いたということがありました。外国人、特に知識階層の外国人は自国の文化を大事にしています。そして当然のこととして、外国人である私たちも同じように自国の文化を大事にう誇りを持っていると信じています。だから当たり前のこととして、日本人なら誰でも源氏物語や柿本人麻呂、浮世絵などについては深い理解をしていると信じています。

今の若い人(基準としては生まれたときから携帯電話があった世代以降の人)たちはCDが当たり前にある世の中に生まれ育っているのでいくらでも音声教材が手に入ります。また学校にもネイティブの先生に触れる機会が全国に普及しています。だから昔の日本人(私もそうです)に比べてけた違いに平均的な英語力は上がっています。しかし、それに反比例するように源氏物語や柿本人麻呂について説明できる人は減っています。

日本のような島国ではなく、地続きで他国とつながっているような国の人になればなるほど自国の文化を大切にしています。もちろん、島国だからというのは言い訳にもなりません。例えば英国人などもこの例外ではないからです。逆に自国の文化を大切にしない人は外国では軽蔑対象にしかならないのです。ですから、どんなに外国語を勉強しても、自国の言語や文化を大切にしない人はその外国語の知識や技術は学国に恥をさらしにいく準備をしているに過ぎません

三つ目は今までお話したことのベースでもありますが、自国の言語と文化を大切にしていなければ外国の言語と母国語の対応が単語集形式にしか頭の中で対応できず、言語の持つ奥深さを理解することが決して叶わず、所詮は薄っぺらな言語認識になってしまうのです。言語認識が薄っぺらいものだと、その人の語る言葉には人を動かす力が当然ありません。

これらについてはきちんと述べようとすればそれだけで一つ一つがかなりの分量になってしまいますので今回は軽く目次的な触れ方にしますが、これについても魔女として日本で生きていくには色々と重要な部分があります。

例えば、スペルなどの時の祈りの言葉や呪文を「自分の言葉として唱える場合」にはやはり日本語で唱える方が効果的である、という事の理由と根拠はこうしたところにあるのです。

こうした一見、魔女とは無縁のことが、日本で魔女を実践していく上では本質的に大切なことにつながっている、ということは色々とあります。機会をみてこうしたことも少しづつ書き足していこうと思っています。

2021年5月17日月曜日

信仰と癒し

 宗教の語る救いといえば、古くから「貧・病・争・苦」が代表的なものです。貧しさ、病気、人間関係、さまざまな、特に自分が原因ではない運命のいたずらとでも言うしかないような苦しみ、そうしたものはいつの時代も人を悩ませ、苦しめ、時として生きる希望まで奪ってしまいます。どの宗教もこの「貧・病・争・苦」と「死の恐怖」に対しての答えを追い求め続けてきたといっても過言ではないでしょう。

当然、その各々について簡単に書くことは決してやさしいことではありません。どれ一つとっても1冊の本で語ることすら無理なものです。いづれ機会があればそれらについて私が思うことを丁寧に語ってみたいと思っていますが、今は「病」を例として「信仰と癒し」についての捉え方をお話ししてみたいと思います。

とはいえ「病」についてをここでしっかりと語ろうなどとは思っていません。私がここでお話ししたいことは「癒し」と現実的な治療との関係を述べることでその特徴の一端を示したいと思っているだけです。このことは最初にお断りしておきます。

さて「癒し」は「ヒーリング」という言葉でよく目にします。これはおそらく日本人の宗教アレルギーが「癒し」というと宗教的な感じがするという抵抗感を感じ、横文字にすれば宗教とは別物として扱っている気分を出したいために定着した言葉だと思います。

そもそも医学的な治療と癒しはどのように違うのでしょうか。

簡単に言えば医学的な治療では薬や手術などの物理的、化学的な技術で人を病から開放しようとします。それに対して癒しは一部のパワーストーンヒーリングなどを例外とすれば「何か物質」を使って行うものではありません。無論、アロマテラピーなどをどう捉え、どちらに分類するかは意見が分かれるところでしょうが、ここではあくまでも便宜上、「物を使うか使わないか」という観点で捉える事にします。

しかし、私はもう一つ別の側面がより重要だと考えます。

つまり、医学は技術であり、癒しは信仰だという側面です。医学が技術であることは誰にも異論はないでしょう。問題は「癒しは信仰に基づく」という方です。日本でいわゆるヒーラーと自称していたり、呼ばれている方にはこれを即座に否定する人も多いでしょう。信仰を持たずに癒しを行っていると主張する方も少なくないでしょう。それでも私は「癒しは信仰に基づく」と考えています。

それは、自然科学的な思想とは別の思想体系、そしてそれは様々な種類のものではありますが、そうしたものに癒しはその根拠を持ちます。

自然科学を思想というと首をかしげる人もいるでしょう。しかし、現代の自然科学の根本的な表記方法の一つである微分積分学一つとっても、これは思想と呼ぶべきものなのですから、自然科学は立派な思想なのです。それにもし自然科学というものが思想でないとしたら科学哲学などという学問分野はそもそも成立しようがないのですから。

話を戻しますと、その自然科学的な思想とは別の思想体系とは、人間の持つ理性的なものとは別の感情や感覚に依拠するものです。これを論理的に説明することは本質的には不可能です。そのシステムを体系的に説明し、科学的なものと主張するものもあるでしょうが、そうしたものも突き詰めれば所詮、「仮説」にその根拠を置いているに過ぎません。ですから、それは多くの魔女の思想で語られる神性の概念と突き合わせた時、神性なる者を神と呼ぶか、女神と呼ぶか、あるいはエネルギー体など疑似科学的な呼び方にするかの違いはあっても、好き嫌いというフィルターをはずすとそこには、根拠を神性に依拠する体系があるに過ぎないのです。

それゆえに私は「癒しは信仰に基づく」と考えるのです。この点については反論が出ると思います。しかし、逆に言えばペイガニズムなどの古代宗教にルーツを持つ宗教観はそうした自然科学的な説明ができない癒しの源は神性なものである、とみなしているということもできるのでしょう。もちろん、これはキリスト教などでも一神教か多神教かの違いとそこから派生する違いはあるものの同じような論拠を持つといえます。そしてそういう理屈で言えばおそらくどのような反論も論拠を失うでしょう。

ここで一つ誤解を招かないように付け加えておくと、「癒し」を行うときに必づしも神性なる者に意識的に祈りを捧げる必要はない、ということです。もちろん、祈りを捧げても良いのですが(私は捧げています)、意識的な祈りの生むは無関係に癒しを意識したとき人は誰でも宗教的にならざるを得ないのです。これは自覚的信仰を持っているかどうかは無関係です。

さて、それでは医学と癒しはどのような関係にあるのでしょうか。

一言で言えば私は「補い合うもの」と考えています。補完するもの、ではありません。完成も完結も保証されていないわけですから、あくまでも「補い合うもの」あえて言い換えるなら「支えあうもの」なのです。

癒しが為されたと言っても、薬が必要ないとか、手術が不要であるとか、病院の検査がいらないとかということは絶対にありません。病気の時には病院にいき、しっかりと医学的な治療を受けなければいけませんし、輸血拒否などに代表される「宗教的理由による医学の拒否」などはまったくナンセンスというよりも、人類、いやホモサピエンスであることすら放棄したといえるほどの愚か極まりない存在への堕落であると断言します。

そういう主張をする人は、どんなに差別的なそして侮蔑的な言葉を選んで、さらにその最大級の言葉を投げかけてもまったく足りないと断言できるほどの愚かしさの権化と断言して間違いありません。本来の癒しは迷信とは無縁のものなのですから。

同時にまた、医学的な治療を受けているからと言って癒しが不要とも言えません。神と女神は常に人が癒しを受けられるようにしてくださっています。自覚的宗教と習俗的宗教のような二者の対比と同じように、自覚的癒しと無自覚の癒しが存在するからです。自覚的癒しについて多くを語る必要はこの場合はないでしょう。無自覚の癒しは例えば、手術を受ける時の執刀執刀医や医療関係者、そして見守ってくれる人たちの「何とか治したい」という気持ち、そして本人の執刀医をはじめとする医療チームの一人一人に感謝したり、前後の看護を懸命に続けてくれた看護婦や家族などへの感謝の気持ちを持つならば、その感謝と謙虚さが祈りとなり、癒しはそれとはわからないように与えられるのです。

このように「癒し」というのは常に私たちに寄り添っているものなのです。一つ、実践的な話を蛇足として付け加えれば、こうしたことを理解しているかどうかは誰かに「癒し(ヒーリング)」に行うときの力に決定的なものを与えてくれるといえます。

2021年5月16日日曜日

指摘してくれる人

先日、とある所で、とある人達の対話に同席して横で聞いていて思った事ですが、誰しも人の欠点を(陰で言うのはともかくとして)面と向かって真摯に言うのはなかなか難しいものだと思います。難しいだけでなく、逆恨みをされたりということもあり、言う方にもデメリットがかなり出る可能性があります。そうしたことを考えると相手が小さい子供になら大人として注意することはできてもある年を越えた当たりを境にだんだん言えなくなってきます。

これは同時に逆のことも言えます。

ある年齢までは自分の欠点などを注意してくれる人も多くいます。

しかし、ある程度の年齢になってくるといきなりみんな言ってくれなくなります。

まぁ、当然です。

そして、いつの間にか自分の周りから人が消えていく、というのもよく見る光景です。

どちらも仕方がないことなのは間違いありませんが、ある種の人の業というか、寂しさのようなものを感じるのもまた事実。

私などは一般的レベルから考えるとかなりずけずけと言ってしまう方なのですがそれにはそれなりに酷い目にもあってきましたし、摩擦も摩擦などというレベルでなく経験してきました。もちろん、そのために絶交状態になってしまった人も少なくはありません。

ただ、今思い返しても間違ってはいなかったな、とも思うのです。間違っていないことと、適切だったことは別ではあるものの、間違っていないならある意味あきらめもつきます。

……と、いろいろ考えてみた結果、結局私はそういう性分、という事なのだろうな、と。

『雨にも負けず』ではないけれど、

  自分の悪いことろを遠慮なく口にしてくれる人は大切にし

  納得できなければ反論し

  それが誤解なら誤解を解き

  指摘が正しければ素直に認め正し

  人の問題点は必要ならば指摘し

  共に正し

  正しいことは正しい、悪いことは悪いと率直に口にする


そういう人になりたかったわけではないけれど、そういう性分を貫くことに結果的になってしまったな、と。でもまぁ、ここまで来ると存外そういう自分を嫌ってもいないので、これはこれで良いのだろうと思っているのもまた事実。


とかく人は性分には逆らえないもの、などとうそぶくのも我流の粋なのかな、と思ったり、思わなかったり。

2021年5月11日火曜日

清めの儀式について

 清めの儀式について、特に場の清めについての話です。

少し前の話ですが、新しい家に引っ越す方に頼まれて家の清めをさせて頂きました。時々頼まれて行うのですが、まづ賃貸物件でも入居する前に何もない状態で部屋を全て掃除して置いてもらって、それから清めの儀式をします。

実際問題としては、完璧な掃除ができていればそれ自体が清めとなるのということは以前

「魔女と箒の話」

でも書きましたが、生活が始まってから常に完璧に掃除と片づけがなされている、ということは現実問題としてなかなか難しいと思いますし、場合によっては外出先でマイナスのエネルギーを背負ってきてしまうこともあります。

そうなったら、よくないことが連続で起きるようになってしまったり、それこそ負のスパイラルに入ってしまう場合すらあります。そこで、そうしたことを防止するために清めの儀式を行います。

だからといって、清めの儀式をしてあればその後は掃除や片づけを手抜きして良いというわけではありません。そうした日常で普通にすべきことはきちんとした上で現実的にどうしようもない場合に備えて、というものなのですから。

当然、こうした清めの儀式を完璧に行い、場合によってはそれ以上のことをしていても、その後片づけや掃除をあまりにもしなかったためにそうした効果が一切なくなってしまい、色々な問題を自分から呼び込んでしまう人もいます。

では「現実的にどうしようもない場合」「それを越えてしまう場合」というのはどこで分かれるのでしょうか。


実はこれは実際問題としてはここの場合によりけり、ケースバイケースというのが正直な回答なのですが、それでも「自分の場合大丈夫だろうか?」という判断をする手がかりというものは幾つかあります。その一つは


「~という事情だから仕方ない」

「頑張ってもここまでだから仕方ない」


等、片づけなどができていない状態に対して自分で理由をつけて「仕方ない」という言い訳が出てくる場合は大体の場合アウトです。「言い訳でなく、実際にそうだ」などと思うようだとかなり重症です。

逆に、

「いくらこのところ忙しかったとはいえこのままではまずい

「体調が悪いとはいえ、これはまずい


等というように最初から素直に思えて、なおかつ


「それでは今できる片づけだけでもしよう


と何かを1つ棚に戻すだけでもできれば、その瞬間から意識して片づけなどをすれば大丈夫です。

他にも色々な基準はありますがほとんどに共通するのが

「汚いのはしかたない」

とどこかで思っている場合は既にかなりまずい事態になりつつある、と考えて間違いありません。

魔女といえば箒、というイメージがあるくらいです。魔女に興味を持つ方は今からでも「掃除と片づけ」にも興味を持ちましょう。そんなこともあり以前「掃除の話(1)」~「掃除の話(4)」をかいたのでした。

まじめな話、それがあるかどうかだけで随分と違ってくるものです。


(「何が随分違ってくるか?」ですか?色々と本質的なものを指しています。文章の最後の一言というのは意外と意味深なものです)

2021年5月9日日曜日

アメリカ製か?イギリス製か?それとも……?

 トランプ占いの話を書いたので、もう少しトランプをネタに話を進めようと思います。トランプの時に使うトランプは「絶対に紙製」でなければいけません。プラスティック製のものはまともに占えません。

材質の問題はこれで良いとして、イギリス製か、アメリカ製か?で差があるかどうか?という話を書いてみようと思いました。タロットの場合は製造国によっての違いというものはほとんどありません。ではトランプでは?

この話題は他で書かれているを見たことがありません。もちろん、占いの場合に、ですが。

結論で言えば一長一短だと思います。

イギリス製は基本的に素朴な紙の物が多く、なじみやすく、使い勝手もよいのですがどうも寿命は短いものが多いです。これは表面加工や印刷の問題が大きい気がします。

対してアメリカ製は、意外と丈夫なものが多いのですが、やはりイギリス製の物と比べるとしっくり来る感じが若干落ちる気がします。

結構その辺は感覚的なものなのかもしれませんが、でも、否定しきれないものを感じています。

私自身は最初イギリス製に徹していました。

「師匠がイギリス人だったので」

というのも大いにありますが、それ以前に使い勝手がやはり非常に良いのです。なので、

「気に入ったトランプがあったら、まづ10デッキは予備を含めて買っておく」

というのが基本でした。ともかく、もちが悪いのです。すぐに痛んでしまうのでストックは絶対必要なのです。

それに比べ、アメリカ製のBICYCLEのものは頑丈です。すこし滑りが良すぎる感じがしますが、それはコーティングがしっかりしているからなのだと思います。ただ、このコーティングがしっかりしすぎているとプラスティク製に近い感じが出てくるので、慣れるまでは占いにくいです。結局私は一時期コレクション的に買い求めていたときもありましたが、BICYCLEのカードは使わなくなりました。

最近ではイタリアのタロットメーカーであるLO SCARABO社製のトランプを愛用しています。紙の良さがきちんとあるのに、イギリス製に比べてしっかりしています。さすがタロットメーカー、という感じです。

ともあれ、独断と偏見をたぶんにに含んでいますが、他でたぶんあまり目にすることがなさそうな話題、と思って書いてみました。

2021年5月8日土曜日

トランプ占い

 カード占いというとタロット、という感じがありますし、事実タロットというのは占い道具としてはかなり優秀で結構便利なものです。かつての私もカードで占う時にタロットを使うことが圧倒的に多かったし、私だけでなく一般的にそういう人がかなりのパーセンテージを占めていると思います。

私はトランプ占いから入って、タロットがメインになり、その間コンチネンタルカード、ルノルマン、マイナーな占い用カード(さすがにスピ系のオラクルカード等は使いませんでしたが)と色々実占に使ってきました。それでも便利さから結局、タロットがほとんどの場合を占めるようになり、カードも今手元にあるだけで200種類(コレクション用を含むとその倍)くらい、という状況になっていました。しかし10年くらい前から、それまでたまにしかやらなくなっていたトランプ占いがまたメインになってきました。

「また」というのは元々はトランプ占いから私の占いは始まり、Witchcraftのイニシエイションを受けた前後で師匠に「魔女の占いはトランプ」と言われてきちんと習ったのはトランプでした。やがてタロットなど色々な占術に手をだし、タロットばかりとなったのでした。そんな感じでタロットばかりで占ってきたのですが、ある時、トランプ占いの話がふと出てきて、

「今どのくらいトランプで占えるんだろう?」

と思い、しばらくご無沙汰していた占い用のトランプを持ち出してきて簡単ですぐに結果がわかるものをいくつか占ってみました。すると、結構すんなりと答えが出ました。そこで新たに発見したのはタロットではいつも出しにくかったようなものがトランプだと簡単に出る、ということが意外に多かった、ということでした。

そうなるとだんだん面白くなってきて、それから数年、タロットとトランプの使い分けというのをテーマに同じ問題を両方で開いて比較したりなどだんだんトランプを開く時間が増えてきました。

トランプはタロットと比べるとどうも遊びのイメージが強いですし、実際「日本語のトランプ占いの本」は小学生などが遊ぶのにちょうどいいようなレベルのものしか出ていません(海外のはチェックしたことがないのでなんともいえませんが……)。「大人の……」というような子供向きではない主張をしている本も幾つかありますがイラストを減らして、漢字を増やして、値段を上げた(ここ重要)だけ、というレベルで内容に変化はありません。

さて、話を戻しますが、タロットをある程度(40年以上)までやった後にトランプに戻るとその奥深さに驚くとともに、面白さもかつてとは違った次元で実感できました。このくらい長くつきあっている中で改めて見直すと


「タロットはタロット、トランプはトランプでやはり別物なのだなぁ」


というのをしみじみ感じます。以前はタロットのように神秘的な絵札でもなく、カードそのものからのイメージがわきにくいし、そもそも占い専門のものでもないし、深い意味があるわけでもないし……(悪口ばかりですね)と、ようするにタロットと比べて

「言い方は悪いけど格下?」

というように感じる部分がありましたが、それが根本的に間違いだったと反省しました。きっとあの世で師匠も苦虫を噛んでいたと思い、しばらく向こうにはいきたくないと思いました(笑い

またトランプはタロットと違って、シンプルなものであればあるほど読みやすいし、精度も上がるようです。私の個人的実感で言えば、イエス・ノーを断言する必要がある質問、特にそれがはずれると会社が一つ倒産するレベルの二者択一の質問などではトランプの方が安心して応えられます。

ただ、一つだけ言えるのは

「タロットの方が頑丈」

ということです。タロット見いくら占っても物理的にカードがダメにならなければいくらでも使えますが、トランプの場合、ある程度占うといきなりおかしな結果を出すようになってしまうことがあります。そうした場合は面倒でも聖別をし直さないといけなくなります。こうしたことはタロットではあまりない(私は経験ない)現象なのではないかと思います。これはやはり、タロットが最初から占いを目的として作られた専門性からきているのかもしれませんが、あくまでこれは私の想像でしかありません。

と、今回はトランプ占いについて色々と思うことを書いてみました。


2021年5月6日木曜日

魔女としての宗教とのつきあい方(2)

(続きです)

"人間精神は科学知識だけでは生きてゆけない。人間精神が生きてゆくには科学知識以外のもの、なかんずく宗教性が必要なのである。人間精神は宗教なくしては飢え衰える外はない。"

これも全くその通りです。「立派な樹木のほとんどが立ち枯れ」と言われるほど伝統的な既存の宗教は心の中に抱えた自分の切実な思いに、あるいは訴えにといってもいいのかもしれませんが、そうしたものに対して(一部例外は在るでしょうが)十分に応えてはくれていないと思っているのが普通の人の感覚ではないでしょうか。だとすれば、一般的な日本人が「宗教なんて……」という思いを抱くのは当然です。これは宗教が本来の基本的な役割すら果たしていない、少なくてもそうした宗教が殆どだ、ということです。

すこし話がそれますが、ここで重要なのは私たちも伝統的な既存の宗教が応えてくれない「心の中に抱えた自分の切実な思い」を抱えている当事者である(あるいは当事者であった)、ということを自覚すること、そしてそれ忘れないでいることです。これを自覚していないと、あっちふらふら、こっちふらふらとしてしまい、何年もの時間の無駄をしてしまったり、自分の実践の軸がぶれまくってしまったり、挙げ句には自覚がないままにわけのわからない状態になってしまう危険が大きいからです。こうした自分の心を見つめたり、見直したりする事は意識的に折に触れてすべきです。

本題に戻ります。ともあれ、私たちがWitchcraftの道を求める(求めた)のは自分の中にここでいう「人間精神の飢え」を感じていることが本質の中に、程度は別として存在するのです。

"ところが、今日の宗教界を見渡してみて、心の飢えを癒してくれる所が見つかるだろうか?伝統を負うた宗教は形がいが残っているだけで、生命は枯れている。"

これは困ってしまいます。と、いうのも「人間精神は宗教なくしては飢え衰える外はない」というのに、伝統的な宗教は形骸しか残っていない、というのですから。

ただ、少し自分を振り返ってみてください。オカルトとして魔女の道を進んでいる人は別として、Witchcraftを宗教として捉え、あるいは宗教遍歴の後Witchcraftにたどり着いたような人ならば、この「困った状態」を実感できるのではないでしょうか?少なくても「そのような気持ちを持ったことが在る憶え」はあるのではないでしょうか。かといって、へたに新しい宗教にと思っても、それがもしかすると破壊的カルトかもしれない、という不安があり、結局心の中に重いものを抱えたまま、という状態を抱えていたことがあったのではないでしょうか。

実際にこういう気持ちを持ったり、そういう状態にあったかどうかは別としても、これは誰しもが理解しやすい「困った現状」ではないでしょうか。

"宗教の生命は人間によってのみ承けつがれる。いわゆる血脈相承によって宗教的伝統の生命は伝えられるのである。ところが科学文明のなかで、人間がその尊厳なる人間性を剥奪され、自らを動物並みの存在と見なすようになっては、偉大な宗教の生命を授受するに足る人間は育ちようがないのである。"

これは少し過激な言い方ではありますが、私にはそれなりに実感できるものでもあります。また、この文章を読んでくださっている人も感覚的に実感できる人が多いのではないでしょうか。

ただ、多くの一般的な人にとってどうなのかな?という疑問は多少あります。と、いうのも多くの人たちは人間の尊厳である人間性を無自覚のままなくしつつあるように思うからです。自分の権利の主張ばかりや他者への批判、科学万能主義と合理性の中にある謙虚さの不在、そうしたものを当然としている人が残念ながら多くなってしまっているのではないでしょうか。

もちろん、ネットなどでよく見かける自然科学的エビデンスを無視した一部の(?)スピリチュアルの人たちや、一部の(?)陰謀論者たちのような基本的な頭が悪い人たち(これは差別用語的な意味ではなく、私のように足が悪い、目が悪いというのと同様に「この部分が悪い」という意味です)は既に人間性を失うどころか人間であるかすら怪しいので当然初めから範疇外ですし、そもそもこの議論の中での存在自体が不適です。もっともこうした種類の人が「しばしは魔女を自称する」することがあるのには毎度頭が痛くなるのですが。

それはともあれ、そこまで極端でないとしても、科学万能、合理主義、個人主義(しかも本来の個人主義の心は輸入されていない!)を前提とした教育を受けているうちに殆どの人が心の中にモヤモヤしたものを抱えつつも人間性を捨てさせる方向へと知らずに導かれてしまっているのではないでしょうか?

これも前回の最初でお話ししたような「頭ごなしの否定も盲目的な信心もダメ」ということが成り立つのでしょう。自然科学、合理主義などを頭ごなしに否定して精神論などを論ずるのは当然ダメですし、逆に科学万能、合理主義最優先という思考もダメなのです。

さて、魔女にとって大切なことの一つに「自分自身を知る。自分自身について深く見つめる」というものがあります。言い方は多少違っても、このことの大切さが強調されることはわりと多く見られます。しかし、いきなり「自分自身を深く見つめなおせ」等といわれてもどう手を着けるか、最初のうちは困ってしまう場合が多いのではないでしょうか?そうしたとき、ここでお話しているようなことをヒントや手がかりにして実践してみると、最初は難しいかもしれませんが、だんだん上手に深く見つめなおすことができるようになると思います。(それでもうまくいかなくて困っている人は遠慮なくご相談ください)

少し余計なことをお話ししますが、Witchcraftは宗教である、とは私の口癖の一つですが、だからといっていわゆる宗教のように実践者(一般的宗教では信者)を増やすことを目的に布教活動をする事はまともな魔女ならしませんし、誰か特定のリーダー(一般的宗教では教祖)を崇拝したり、絶対視したりすることはありません(そもそもWitchcraftが神秘宗教なのである意味本質的に当たり前なのですが)。しかし同時にこれは初心者からすると明確な指導者がいないのでどうしていいか技術的な部分で困ってしまう、ということもよくあります。今回もそうですが、そうしたときの何かの手がかりや参考になればいいなと思ってこうした文章を書いていることが私の場合は多いです。なので、この文章にしても部分的には賛否両論あると思います。もっと言えばなければ困ります。そのためにあえて極端な物言いをしているところもあるのですから。でも、それでいいのです。いや、それがいいのです。どの部分に対してどの立場でも自分の考えを持つこと、それが大切な訓練の一つになっているのですから。

閑話休題。

続きを見ていきましょう。

"これに代わって、人間性真の宗教的欲求を満たしてくれるかの如く見える雑多な宗教現象が在る。そこにはむせ返らんばかりの生命が在る。しかし残念なことに、それらは人間に一時的、部分的な安らぎを与えるだけで、時とすると、その虚偽を含む宗教性は人間の苦悩をますこそさえ少なくない。"

これは伝統宗教の分派の形をとった商売っ気たっぷりの宗教団体や、宗教の皮を被った破壊的カルトの跋扈などを考えればよくわかります。そして、オウム真理教などもそうでしたが、そうした団体ほど、既存の宗教がなくしてしまった、それこそむせ返らんばかりの生命があり、熱い情熱や一人一人から伝わってくる命懸けの真剣さがあったりするので、それに圧倒され、感動し、捲き込まれていって人生を踏み外してしまうこともよく見かけます。これが同時に多くの人にとっての宗教の悪いイメージのプロトタイプとなってしまい、きちんとした宗教からまで遠ざけてしまうのです。

"物質文明の豊かな現代は宗教的には無知、蒙昧の時代である。"

現状では仕方ないとはいえまったくもって嘆かわしい限りです。

"われわれは今こそ真の宗教の高い姿を見つけなければならない。"

これは本当に私の個人的な考え出しかないのですが、こういう時代、こういう環境の中だからこそ、Witchcraftの実践者にはこのくらいの高い志を(少なくてもいつもどこかには)持っていて欲しいと思うのです。

魔女としての宗教とのつきあい方(1)


 「魔女は宗教である」
とは私がよくいう言葉です。
少なくても私にとってWitchcraftは宗教であり、生き方であり、断じてオカルトや趣味ではありません。


しかし、この宗教というもの、本来は素朴なはずなのにこの現代日本に置いては大変扱いが厄介なものになっているのもまた哀しき事実といえます。

今回はインド哲学者・宗教学者の佐保田鶴治氏の著作の中の一節をテキストにその当たりを丁寧に書いてみようと思います。

佐保田氏がその著作『ヨーガの宗教理念』(図参照)の「はしがき」で以下のように書かれています。まだ古書では買えるようですが既に絶版になっている本なので以下少々長いですが引用します。

「現代は宗教が見失われた時代である。宗教を頭から否定するひとも、宗教を弁護し、宗教に寄りすがるひとも、全て宗教の実相を見損なっているように思われる。

(中略)現代の宗教界は立派な樹木のほとんどが立ち枯れてしまって、雑草だけが生い茂っている荒野なのである。

(中略)人間精神は科学知識だけでは生きてゆけない。人間精神が生きてゆくには科学知識以外のもの、なかんずく宗教性が必要なのである。人間精神は宗教なくしては飢え衰える外はない。

(中略)ところが、今日の宗教界を見渡してみて、心の飢えを癒してくれる所が見つかるだろうか?伝統を負うた宗教は形がいが残っているだけで、生命は枯れている。宗教の生命は人間によってのみ承けつがれる。いわゆる血脈相承によって宗教的伝統の生命は伝えられるのである。ところが科学文明のなかで、人間がその尊厳なる人間性を剥奪され、自らを動物並みの存在と見なすようになっては、偉大な宗教の生命を授受するに足る人間は育ちようがないのである。

これに代わって、人間性真の宗教的欲求を満たしてくれるかの如く見える雑多な宗教現象が在る。そこにはむせ返らんばかりの生命が在る。しかし残念なことに、それらは人間に一時的、部分的な安らぎを与えるだけで、時とすると、その虚偽を含む宗教性は人間の苦悩をますこそさえ少なくない。

物質文明の豊かな現代は宗教的には無知、蒙昧の時代である。(中略)

われわれは今こそ真の宗教の高い姿を見つけなければならない。(以下略)」

(佐保田鶴治『ヨーガの宗教理念』1976年 平川出版社)

これは脚注にあるように1976(昭和51)年に書かれた文章です。そしてその19年後の1995年(平成7年)にオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり、今やそれも風化してきつつありますが、これだけ時間が流れ、時代が変わってもここに書かれていることは悪化こそすれまったく改善はされていないのが現状です。

このテキストは日本でWitchcraftを実践している私たちが自分たちのことを考えるためのヒントの宝庫なので、丁寧に見ていきたいと思います。

"現代は宗教が見失われた時代である。宗教を頭から否定するひとも、宗教を弁護し、宗教に寄りすがるひとも、全て宗教の実相を見損なっているように思われる。"

これは現代でも寸分違わず当てはまる言葉でしょう。そして頭ごなしの否定も盲目的な信心も「宗教というものを全然分かっていない!」と否定されています。このことは私たちが絶対に忘れてはいけないことです。頭ごなしに否定する、ということはWitchcraftの実践者ならばまづする事はないでしょう。でも、願望達成のスペルなどにその実践が偏ってきたり、一般的な、というか受け身の姿勢での宗教観になってしまうと宗教を盲信するような、いいかえれば頭を使わずただすがるような宗教観になってしまいます。これでは「宗教は弱い人間がすがるものだ」という、世間でよく聞く宗教否定の常套句にそのまま当てはまる状態になってしまいます。これでは一部の破壊的カルト宗教の教祖が求めるようなマインドコントロールの状態になって、自分で考えることすらできない人間に成り下がってしまいます。これでは宗教を信仰したが為に不幸になるという本末転倒状態になってしまいます。佐保田氏が「全て宗教の実相を見損なっている」と断言するのもまったくもってその通りです。

"現代の宗教界は立派な樹木のほとんどが立ち枯れてしまって、雑草だけが生い茂っている荒野なのである。"

これは耳が痛い。私個人としては、一宗教者として「そんなことはない!」と反論したいところですが現実は全くその通りです。しかもその雑草の中にオウム真理教、法の華三法行等々といった宗教の皮を被った破壊的カルト集団もあるからなおさらたちが悪い。現実問題として立派な宗教が立ち枯れしている死んだ森の足元を質の悪い雑草が生い茂っている状態なのはだれも反論しようがないでしょう。そして私たちもその雑草の一つというポジションが少なくても形上は与えられているのは紛れもない事実なのです。それだけに、私たちがWitchcraftを宗教として実践していく上で、こうした有象無象の雑草に紛れないようにする気概は決して忘れてはいけません。同じ雑草でも

「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決め付けてしまうのはいけない。注意するように。」(昭和天皇陛下)

(入江相政宮中侍従物語」』1980年 角川出版社)

と人から言っていただけるような「名のある草」であるべきですし、そうあろうと常に心がけるべきです。


(佐保田鶴治『ヨーガの宗教理念』1976年 平川出版社)


(2)に続く

2021年5月5日水曜日

魔女の儀式をいつ行うか

 すごい!
なんと1日に2記事更新!
とんでもないことをしてしまっている気が……(笑い

さて、今回もよく質問されることについて書いてみようと思います。それは「魔女の儀式を行う日付は厳密であるべきか?」ということです。

これにお応えする前に、前提として魔女の儀式は大きく二つに分けて考えられます。

1つは願いをかなえるためのスペルのような個人的な願望に基づく儀式です。これは目的によって月の相を考えたりする必要はありますが、基本的にその儀式で定められているタイミングを重視するだけでよく、その上であればいつ行っても構いません。

もう1つはサバトなど季節の祝祭の儀式です。こちらが問題になります。

日本では夏くらいになるとハロウィンの商品で町が色づきます。そして10月31日を境に全てなくなり、いきなりクリスマス商品一色になります。そして12月25日になると、クリスマス商品は一切引き上げられ、お正月用品一色になります。

この感覚でいうと、祝祭の前に盛り上がって、当日に最高潮、そして翌日からは次のシーズン、というイメージになると思います。

しかし、魔女の祝祭はこれと同じに考えてはいけません。と、いうのは


魔女の祝祭は「その日が来たことを祝う」というもの


だからです。ですから前日などに祝ってはダメなのです。逆に言えば、無理に当日に儀式を行わなくても、祝祭日当日から1週間くらいの都合のよい日に儀式を行い祝えば良いのです。例えば、祝祭日が火曜日で忙しければ、土日に祝うので全く問題ないのです。

もちろん時間がしっかりとれるならば厳密に日付を守に越したことはありません。でも、無理に行って満足できない結果になるくらいなら後日にきちんと準備して行う方が良いと思います。

どうしても当日何もしないことが気になるなら、寝る前に簡単なのお祈りだけして、後日しっかりとした儀式などを行えば良いのです。

2021年4月29日木曜日

用語集

 網羅性はともかくとして、よく使う言葉を中心に用語集を作ろうと思い立ち、昨日から急に書き始めました。

最初は簡潔な用語と説明、という簡単なものを考えていましたが、実際書いてみると「どうせならもう少し書いておこうかな……」などという気になってしまい、どちらかというと「調べるための用語集」ではなくて「読むための用語集」になってしまいそうな感じがしてきました。

今まで書いてきたものと違って「思い立ったら一気に書く」という用にはできないので、私にしては長丁場な物になりそうです。しかし書きながら「これについての小冊子を書いても面白そうだな」と思うものがあらためて用語を見直す中で出てきてしまい、それがちょっと困りものです。

2021年4月17日土曜日

Witchcraftと他の宗教について

 かつて日本にはじめてWitchcraft(Wicca)を持ち込んだアレクサンドリア・木星王氏は、当時は情報の正確さを今のように確認する術が非常に乏しかったという時代背景もあって、一時期は悪魔主義と混同していたり、色々な大きな間違いをそのまま輸入したりしていました。しかし、氏が最初からWitchcraft(Wicca)を「宗教として」捉え、輸入していたことは非常に高く評価されるべきであり、ある意味他の間違いなどを帳消しにするほどの価値があったと断言しても差し支えないでしょう。


それまで、日本では魔女や魔女による呪術などはオカルトとして扱われるのが普通であり、そこに宗教的なものを認めようとする姿勢は皆無でした。しかし、氏が「魔女とは宗教である」という姿勢を最初から一貫していたことはこうしたオカルト一辺倒の、ややもすると単純な現世利益でご都合主義のお遊び的なものから、Witchcraftに興味を持つ日本人を卒業させる大きなきっかけを作ったことは疑いようがないからです。しかし、だからでしょうが、彼はかつて通信教育のテキストや著作の中で

「Witchcraftは宗教である。だから、この道に進んだら神社に初詣に行ったり、クリスマスを祝ったりすることは心して避けるべきである」

というような主張を何度もしていました。これは私の考えからすると全面的に正しいとは間違っても言えませんが、一概に間違いだとも言えません。

そこで私は以下のように考えるのが順当だと思っています。

まづ、日本でWitchcraftを実践する場合「Witchcraftと神道の違い」をしっかりと自覚する必要があります。と、いうのも日本の神道は民俗宗教であり、Witchcraftも元を正せばヨーロッパの民俗宗教にルーツを持ちます。そうすると、海外の、特に欧米の人から見ると

「日本には神道という民俗宗教であり、ある意味Witchcraftよりも強い呪術性を持つ宗教があるのに、なぜわざわざ日本人がWitchcraftを実践する必要があるのだろう?」

という素朴な疑問を持つからです。そして、日本でWitchcraftを実践するに当たってどうしても神道との共通点や相違点を理解していないと段々と

「おかしなものを実践するおかしな人」

になってしまうからです。また、仏教についても自分なりのスタンスをしっかりと確立しないとたとえば、

「生きているうちはWitchcraft、死んだら仏教の戒名(ホーリーネーム)をつけられて葬られる」

というこれまた不思議な事になってしまいます。しかし、こうしたことをしっかりと自分なりに整理しておけば神道や仏教徒のつきあい方は自ずと見えてくるでしょう。


難しいのがキリスト教です。そもそもWitchcraftはキリスト教以前の古い宗教であり、キリスト教から弾圧された過去を持っています。加えて、キリスト教は古い宗教の祝祭をキリスト教化して奪い取ったという事実がいくつもあります。また、こうした古い宗教のWitchcrafではない、キリスト教以降の魔女の宗教の実践者の多くはキリスト教国でキリスト教に疑問を持ち、

「キリスト教のカウンターとしての魔女の宗教」

の実践者となっているからです。なので、極論を言えば(と、いいつつ本当は極論でもなんでもないのですが)、

「キリスト教という視点」

を持たないと、Witchcraftを始めとした魔女の宗教やペイガニズムを本当に理解することは困難なのです。

なので、Witchcraftの実践者はイニシエイションの後、ある程度の経験(それでも年単位ですが)を積んだら少しづつ、神道、仏教、キリスト教からスタートして、ユダヤ教、イスラーム、ヒンドゥー教、宗教としてのヨーガなどは知識として学び、理解して置くことが大切です。そして、わかりあえる他の宗教の宗教者たちと、いつかは宗教者同士として語り合い、友情を結ぶことができるかもしれません。

ちょっと古い話になりますが、例えばかつて第2次湾岸戦争があったとき、私はWitchcraftの司祭として、日本のイスラームの礼拝所にお邪魔し、法学者の方々と3時間ほど語り合い、その後戦地の人たちの無事と戦争の早い終結と、その後の現地の人たちの幸せを共に祈りました。お互いがお互いを理解したとき、違った宗教の信仰者同士でも心を一つにする事ができるのです。

これは他の宗教を学ぶことの意義のほんの一例に過ぎませんが、自分の信仰を確固たるものとし、その上で他の宗教について真摯に学ぶ、ということはとても大切なことなのです。

かわらないこと、かわろうとすること

 10年くらい前からだろうか、同年代の人たちから「年をとった、年をとった」というセリフをよく聞くようになったのは。そうした話を聞くたびに内心「私は20代の頃からあまりかわっていないな」と、自分はまだまだ若い気でいました。また、仲のよい友人とも「お互い20代の頃から変わらないなぁ」などと笑いあっていました。


しかし、ちょっとしたことがきっかけで自分が若かった頃、ちょうど今の私くらいの人を見ながら「この人は時代後れだ」とか「古い考えから脱却できないんだなぁ……」などと思っていたことをふとリアルに思い出したのです。そしてよくよく考えてみると、当時の私には思いも寄らなかったことですが、若かった私にこういう感想を持たれていた彼らは「私は20代の頃からあまりかわっていないな」と内心思って、自分はまだまだ若いと思っていたのではないか、と気がついたのです。


つまり、年をとる、ということは考え方が年と共に年寄りらしく(?)「変化」して年寄りになるのではなく、ある時期から「変化しない」ことで年寄りになっていくのではないかと思ったのです。そして、その視点で自分や周りを見回していくと、なんと恐ろしいことにこの考えはどうも間違っていなそうだ、という不都合な事実にたどり着いてしまいました。


たしかに人間はある年齢からは寿命から逆算してできること、できないことを考えるようになっていくと思います。しかし、若い頃は待ちがっても「寿命から逆算」などという考え方はしませんでした。実はこの年をとってくると当たり前の「寿命から逆算」という思考を無意識にしてしまうことが人生における挑戦や前進を「正当な言い訳と共に止めてしまう」ものの大きな一つだとだんだんと実感してくるようになりました。そして同時に、こうした考え方が無意識に出てくると「自分が変化しないことを肯定的に」とらえてしまい、結果として、本当は進歩や成長を止めてしまっているだけなのに「自分は若い頃から変わっていない」という恐ろしい現状を精神の若さと勘違いしてしまうのです。


これに気がついたとき

「まずい、これは老人まっしぐらだ!」

と恐怖を伴った危機感を感じました。あれから10数年、実際どのくらい自分が若さを取り戻してこれたのかはわかりません。それでも、あの頃よりは少しくらいかもしれないけど若返れた気がしています。アンチエイジングという言葉がありますが、最後まで「精神のアンチエイジング」をしていくことが大切なのだと思います。また、そうした若さを保っていかないと若い友人たちに取り残されるばかりとなり、自分でも実感するほどに時代に取り残されて寂しく生涯を終えることになるのでしょう。無論、そうした人生の終え方に満足して逝く人もいるでしょうし、それを私は否定はしません。でも、私は嫌だなぁ、と明確に感じています。

2021年4月14日水曜日

近頃の若い者は……

人間年をとったな、と思う瞬間というのは節目節目でいきなり具体的な形で実感することがあります。とはいえ、年をとるのは誰しも避けることができないことなので仕方ないといえば仕方ない。


それは別として、今の若い人と私の年代を比較するとそこにはそもそものベースの違いが絶対的なものとしてある事を老若どちらの年代もしっかり自覚をしておかないとお互い根本的なところですれ違いを起して意思疎通不能になっているのにお互い気がつかないで突き進んでしまう。


ちょっと古い話をしますが(「」話とかぢやなひですよ……)、CDが世の中に普及し始めた頃、私は「あんなものには味がない。レコードの方がいいに決まっている」とCDを徹底的に馬鹿にしていました。そうしたある日友人が「CDプレーヤーを買った!」というのでその日の夕方彼の家に覗きにいきました。そしてその帰り道……


その足で電気屋に行ってCDプレーヤーを買って帰りました(笑い


あの音質の衝撃は凄かったですね。


もう少し前、40年くらい前の話ですが私は当時から原稿執筆をすべてワープロ(2000年2月で新製品は無くなりました)で行っていました。その当時


「ワープロは最後の文房具だ」


というのが私の口癖でした。しかし……1995年にWindows95が出た後、


「パソコンって素晴らしい……」


と、簡単に転びました(笑い


今の若い人には好きな女の子に電話したときに親が出たらどうしよう、等という悩みは持たないでしょうし、私の大学時代の友人のように「好きな女の子のお母さんに愛の告白」をしてしまうなどという恐怖体験はしようがないでしょう。


また、私が学生の頃は


「文章がうまくなりたければラブレターを書け」


という言葉がありました。これは明治時代の高校生(今の短大と同じくらい。高校卒業したら教員免許がもらえました。そこから更に帝国大学に進学すれば超エリート)がよく言っていたらしい言葉で、でも、これは昭和の時代には何だかんだ言って正論でしたが、今ラブレターを書く機会のある若者はどれほどいるのでしょう。


このような感じで昔成り立ったものが今はそもそも存在しない、ということすら普通になっています。


生まれた時からインターネットがあり、携帯電話があり、メールがあり、CDが安い媒体として普及し……これははっきり言ってそれ以前の時代の人間から見れば別世界の話です。私たちの頃はジェネレーションギャップといっても、前述したように明治時代から受け継がれ,それが成立していたものがいくつもありましたが、20世紀から21世紀に代わっていく中でそこにははっきりとした断絶が起こっていたのです。スタート環境がこれほど違えば発想も考え方も違ってきて当然です。


私たちが強要された根性論や行き過ぎた和の精神、そうしたものたちは姿を消した、というよりも今の若い人たちにはそもそもぴんとこない、のではないでしょうか。また、努力の尊さは変わらないにしてもその価値には大きな変化が出ているとも思います。それは当然のことで、同時に過去の遺物の方が良かったとはその時代を生きてきた私にも言えません。


近頃の若い人たちは20世紀に青春を過ごした世代とはべースという意味でも全く違っています。この「違う」ということをお互いに意識していることが大切なのだと思います。私自身そうですが、年をとるとかつて自分にとって価値があった概念や考え方を今でも通じるかのようにえらそうに若者たちに語りたくなる衝動が出てくるものです。私だってそれを否定はできません。しかし、そんな衝動は捨て去って、若い人に習い、若い人を頼り、若い人にまかせ、若い人の考え方を正しく評価する。これがもしかすると一番自分を老化させないコツなのかもしれません。


そして、そういう気持ちで入れば、若い友人たちと対等に人生を楽しむことができますし、劣等感というものからも開放されます。還暦過ぎて若い人に劣等感をもつとか、どう考えてもみっともないですしね(笑い

2021年4月13日火曜日

ポリシーとまんねり

かなり以前からファンだった作家の久々の新作を拝読しました。ところが、今回はなぜか「新作が出る」という広告を見た時から、つまりまだ題名も知らないうちから、かつてのように積極的に読みたいと思いませんでした。思わなかったというか、もっといえば思えなかった、という方が正確かもしれません。


その理由はわからなかったのですが、気が付くと発表されていて、更に数日してから、しかも人から著書を手渡されて初めて読むという今までにない経験をしてしまいました。これまで発売当日に必づ手に入れていた私としてはあり得ないことでした。そして一通り読んだ後、なぜ自分が今回の作品に対して今でと違っていたのかがはっきりしてしまいました。もちろんつまらなくはないのですが、正直面白くもなかったのです。


もちろん、書いてあることには非常に共感できるし「いかにもこの作家という独特の文体」も健在でそうした部分については全く期待外れではありませんでした。


でも、ちょっと読んだだけで先が読めてしまうのです。もっと言えばオチが見えてしまうというか。たしかに作者の言うことには一貫性がずっとあるし、思想のぶれもあまりません。そうした意味ではどんな作品を書かれるにしてもしっかりと一貫したポリシーの元に作品を書かれているのでしょう。でも、残念ながらかつてのように何度も読み直したり、人にも積極的に勧めたり、という気持ちにはなりません。そこまでの魅力や輝きをもう感じられなくなってしまったからなのです。


それは作家ご本人が一貫してぶれずに持っているポリシーを貫いている姿勢の中に、その実、そこから更に前進することから逃げているのがどうにも透けて見えてきてしまったからです。そう思って過去作を読み返すとある時点を境にその傾向が時と共に強まっているのが読み取れてしまいました。もう一度、今度は作品を時系列順に読み返すともっと明白にある作品を境に作家の視点の進歩が止まってしまい、自分が前に進む努力をやめた、あるいはその勇気を捨てたあたりから「自分が前進しないこと」をあたかもポリシーのある保守主義のように自分に言い訳しているような変化をし始めていたのです。


正直、これは私にとって結構なショックでした。それなりに熱烈なファンとして読み続けていたのでかえって気が付かなかったのかもしれません。そして同時に私自身、同じことをしてしまっていないか急に、決して比喩でなく背筋が凍る気がして不安になりました。しばらく考えたのち、おそらくこの不安を持てたということはまだ大丈夫だと悟り、ほんの少し安心しました。しかし、人というのは誰しも、当たり前ですが、今この時も休むことなく老いてゆくのです。10代の若い内は努力など全く不要に年と共に成長していきますが、大人になってからは意識しないと「ただ老いてゆく」ことになるのです。


自分が成長をし続けようとか、自分は死ぬまで前進し続けよう、などという格好の良いことを宣言する気はさらさらありません。ただ、一つ所に止まって先に進まないことを、一見格好よく、実は自分をもごまかすような言い訳をするようにはなりたくないと思いました。件の作家の作品はこれからも発表されるたびに読んでいくと思います。色々思うところはあってもやはりその文体などは好きなので。でも、同時に今後は毎回痛々しさを感じながら読むことになるのだと思うと何とも言えない微妙な思いが残ります。それでも、ファンとしては「奇跡」が起こることを祈らざるを得ないのです。

2021年4月12日月曜日

固執することの罠

大体において、何かに固執しすぎることによいことはありません。もちろん、学問の研究などは一つのものにある程度、あるいはそれ以上固執する必要があることもありますが、それでも「しすぎる」と他の視点を失って行き詰ったり、進まなくなってしまったりするものでしょう。とはいえ、今ここで話題にするのはそうした学問上の話ではなく、私たちが生きていく上での話です。


何かに固執するということは粘り強く何かを成し遂げるには必要なものなのは言うまでもありません。しかし、何事にも程度というものがあります。ある程度を越えた固執というのは大体においてろくな結果を生みません。ただ、私がこんなことをここで主張するまでもなく、誰でもそのことは程度の差こそあれ実感されている事でもあると思います。


怖いのは「固執しているつもりなく固執しているもの」です。私が自分自身でも意識して立ち止まり、振り返り、注意しているものがいくつかあります。例えば「ポリシー」とか「信条」などです。これは自分を自分たらしめたり、自分の言動に一貫性を持たせるためにとても大事なものです。しかし、それは硬直化してもいけないものなのです。もっと言えば、


いつまでも同じポリシーや信条等に囚われ続けるということはいつまでも成長しないことと同じ


ともいえるからです。もちろん、自分のポリシーや信条を考えなしに変えてしまうのはよくありません。しかし、固執しすぎると自分が成長するための致命的な足枷になってしまうことがあるのも事実です。


年をとればとるほど、何かの分野でベテランと言われるようになればなるほど、同じポリシーや信条に疑問を持たずにしがみついていれば正直楽なのは当たり前です。これは言うなれば老執とでも呼べばいいのかもしれません。でも、というかだからこそ知らず知らずのうちに、それこそ楽をして成長することをさぼっているという可能性すら含めて、自分が何かに固執しすぎていないか、という自問自答は誰しも続けたいものです。

2021年4月11日日曜日

プライド

 あった方がいいか、ないほうがいいか、判断に迷うものというのは結構あるものです。

例えばプライド。自尊心とも言いますが、確かにないよりはあった方が良いものです。でも、それがどのようなものか、によっては話が変わってきます。世の中言動からしてプライドの高い人というのは意外と多いものです。しかし、どうもそうして人々の話を聞いていると「その人の実力とプライドが見合っていない」場合が多く感じます。

よく自分がこれだけのものを積み重ねてきた、ということを言いたがる人がいます。特に年配なると増えてきます。こういう人はえてして例外なくプライドが高いです。しかし、彼や彼女の話を今までそれこそ数多く聞いてきて「なるほどこれは大した人だ」とか「なるほどこの人のプライドが高いのは当然だ」と思わせてくれた人は残念ながら一人もいません。本当に残念です。むしろ

「この人は今の自分がとんでもなく恥ずかしい存在であることに一生気がつかないのだろうな」

とすら思います。

ある人のプライドが本物か紛い物かを見分ける簡単な方法があります。それは「その人が卑屈になる事があるか?」です。本人のプライドとは無関係の部分でもどこかに卑屈さがある人のプライドというのは間違いなく「分不相応なプライド」です。これは例外なく当てはまります。ただ、時々「分不相応なプライド」に対して自信満々という人もいて、こうした人はこれの例外になることが多いようです。とはいえ、この手の人はこうした判定基準を使わなくてもすぐわかるくらいには分かりやすいみっともなさをさらしているのであまり問題ではないでしょう。話を戻しますが、この判定基準はその相手をある程度知ってからでないとわからないことが多いです。なので、そのほかの共通点を考えてみましょう。

共通点の第一は「自分に自信がない人」と言えます。自信がないから自分の今までの歩みを謙虚に受け止めることができず、自分が大した者であるということを主張するために「積み重ねてきたもの」とか「キャリア」とかという類の言葉を主張するのです。こういう人には「はじめの一歩すら立派なキャリア」に感じてしまうのです。この手の人にそうした真実を指摘してもかえってむきになって自己主張をするものです。面倒くさいですね。逆を言えば、そういう反応をする人はこのタイプの典型、と言えるのです。

次の共通点は「プライドの根拠に他者依存が多い場合」です。例えば資格をいくつ持っているとか、誰それの弟子であるとか、そういう類のものです。たしかに資格をいくつもとるのに努力はしたと思います。しかしそれで天狗になっている人が多いのも事実です。これもみっともない。そもそもある資格の最高ランクのものを取ったとしても「その資格を認定する人」が圧倒的上位にいるということを失念しているのでしょう。

私のよく知る人にそれこそ数えきれないほどの資格を持っている方がいます。しかし、彼は高度成長期、そこからバブルにつながる好景気の時期、そしてあのバブル時代を通して毎週きちんと職安に行ってまじめに就職活動をしているにもかかわらず、今現在を持って未だ生涯一度も正社員になれたことがありません。各々の時代を知っている人ならわかると思いますが、これはとんでもない偉業であり、伝説を超えて神話と言っていいほどの実績です。それでも、彼は資格を増やすことに余念がありません。そして当然、彼のプライドは天より高いです。

さて、最初の「自信がない人」というのはまづ100%全員共通ですが、それよりはパーセンテージが落ちます。と、いうのも資格などをとる努力すらなしに、プライドばかり育てている人もいるからです。

もう一つは比較的色々なジャンルのプロの世界に多いのですが、我流で今までやってきたので客観的な比較対象がなく、その結果自分の実力を過大評価していたり、「自力でここまで上り詰めた」という妙な自信ばかり肥大化させて、我流ゆえに基礎の部分で間違っていることに気が付かず、その上に砂上の楼閣を建てているタイプです。このタイプの人はなまじ今まで努力をしてきているのがわかるだけに気の毒です。でも、やはりみっともないことには変わりありません。ちなみにこうした人はその実、人の目や、噂話のレベルを含む人の評価や、成功していると自分が感じている人と自分を比べてみたりして心の中に、時として表面化させながら卑屈さを同時に育てているものでもあります。

その他にも細かいことを考えれば、色々と共通点は出てきますが、大きなものは大体この程度でしょうし、これだけで大抵の見分けはつきます。それにこれ以上そうした人の研究に時間を使うのは、限りある人生の中で無駄というものでしょう。

結局、これらすべての根底にあるのはこうした人たちには共通して

「謙虚さが致命的に欠けている」

ということです。自分がどれほどの者か。これを決めるのは残念ながら自分ではないのです。そう考えると「謙虚さがない人という烙印を簡単に押せてしまえる人」になってしまうということは、なんともみじめで恥ずかしいものです。そしてたいていの場合、本人はその恥ずかしさに気が付いていないから余計哀れです。

もちろん自尊心というものは大切です。それなくして誇りも責任感も持てませんし、卑屈さや劣等感をいつまでも追い出せません。しかし、そこに謙虚さや客観性がなくなると恥ずかしく、哀れでみっともない、しかし自分では自分の事を「それなりの人物」と思っている、という道化が完成してしまうのです。

少し乱暴ですが、一言でまとめれば「実力の裏付けのないプライドは捨て去れ」ということになるのでしょう。これができて初めて「本当のプライド」手にする事ができるのです。

2021年4月10日土曜日

私にとっての書くことの意味と自意識過剰

私がブログやツイッターなどで何かを書くと

「これは私のことですか?」

とか

「これは私に対する嫌味ですか?」

等というご質問を頂くことが大変よくあります。

私の書くものをよく読んでくださっていることには素直に感謝なのですが、私はいまだかつて

誰かを頭に置きながら文章を書く

ということは、手紙やメール等の私信を書くとき以外ありません。と,いうか、そこまで私は他人に興味を持っていません。そもそも私にとって文章を書くという行為は、

書きたいから書くのではなく、書くという行為が自分にとって必要だから書く

というものなのです。例えるなら、吸った息を吐かないと生命維持に問題が出るのと同じようなものなのです。もちろん、著作権を無視して流用されるのは困りますが、私が自分が書いたものに対してそんなにこだわらないのもそうした事情からなのです。誰しも自分の排泄物に(特殊な趣味でもなければ)こだわったり、必要以上に所有権を主張したりしませんよね?

さて、誰でも自分の生命維持活動に他人を意識は普通しないと思います。だから、私は誰かを頭に置きながら物を書く、ということは私信など以外ではあり得ないのです。

それでも、こういう質問を何度もしてくる人が少なからずいます。そうした人は私にとって不可欠な存在だと思っているのでしょう。しかしながら、私はそのように他人に依存はしません。だからこういう質問をしてくる人は

「自分はかけがえのない素晴らしい存在」
「自分は自分以外の人にとって大切な存在」

という意識が程度の違いは別としてあるのだと思います。
こうした自己評価ができるようなナルシスティックな気持ちをもてるというのは幸せ者だと思いますか、それを外部に表現したとき、それは単なるorかなりイタイ「自意識過剰」に過ぎません。

ただ、一つ思ったのは「これは自分のことを書いたのでは?」思ったということはその人には十分思い当たるフシがある、ということでもあるのでしょう。そしてそれを「嫌味」などとらえるというのは「そういうことをやらかしてしまっているという自覚」があるということでもあります。

そう考えるとそういう反応を頂くのもある意味面白いですね。

入院

 色々と難しい問題が出てきたので、一度治療法を全部見直そう、ということで薬の調製を主な目的に入院して、あと数日は検査が続きます。

途中違う病院の検査も必要になるので、形上退院してそのまま別の病院へ、等と慌ただしいのですが、お蔭様で大分めどがついてきました。

入院しているとネットにもかなり制限があり、結構手持ち無沙汰になります。そこで、日頃は各時間がない色々な話を少しづつ書きためています。

これから、少しづつそうしたものでこのブログも更新してみようと思います。

そして、きっと……

ネタが尽きたらまた更新が止まるのでしょう……(笑い