宗教の語る救いといえば、古くから「貧・病・争・苦」が代表的なものです。貧しさ、病気、人間関係、さまざまな、特に自分が原因ではない運命のいたずらとでも言うしかないような苦しみ、そうしたものはいつの時代も人を悩ませ、苦しめ、時として生きる希望まで奪ってしまいます。どの宗教もこの「貧・病・争・苦」と「死の恐怖」に対しての答えを追い求め続けてきたといっても過言ではないでしょう。
当然、その各々について簡単に書くことは決してやさしいことではありません。どれ一つとっても1冊の本で語ることすら無理なものです。いづれ機会があればそれらについて私が思うことを丁寧に語ってみたいと思っていますが、今は「病」を例として「信仰と癒し」についての捉え方をお話ししてみたいと思います。
とはいえ「病」についてをここでしっかりと語ろうなどとは思っていません。私がここでお話ししたいことは「癒し」と現実的な治療との関係を述べることでその特徴の一端を示したいと思っているだけです。このことは最初にお断りしておきます。
さて「癒し」は「ヒーリング」という言葉でよく目にします。これはおそらく日本人の宗教アレルギーが「癒し」というと宗教的な感じがするという抵抗感を感じ、横文字にすれば宗教とは別物として扱っている気分を出したいために定着した言葉だと思います。
そもそも医学的な治療と癒しはどのように違うのでしょうか。
簡単に言えば医学的な治療では薬や手術などの物理的、化学的な技術で人を病から開放しようとします。それに対して癒しは一部のパワーストーンヒーリングなどを例外とすれば「何か物質」を使って行うものではありません。無論、アロマテラピーなどをどう捉え、どちらに分類するかは意見が分かれるところでしょうが、ここではあくまでも便宜上、「物を使うか使わないか」という観点で捉える事にします。
しかし、私はもう一つ別の側面がより重要だと考えます。
つまり、医学は技術であり、癒しは信仰だという側面です。医学が技術であることは誰にも異論はないでしょう。問題は「癒しは信仰に基づく」という方です。日本でいわゆるヒーラーと自称していたり、呼ばれている方にはこれを即座に否定する人も多いでしょう。信仰を持たずに癒しを行っていると主張する方も少なくないでしょう。それでも私は「癒しは信仰に基づく」と考えています。
それは、自然科学的な思想とは別の思想体系、そしてそれは様々な種類のものではありますが、そうしたものに癒しはその根拠を持ちます。
自然科学を思想というと首をかしげる人もいるでしょう。しかし、現代の自然科学の根本的な表記方法の一つである微分積分学一つとっても、これは思想と呼ぶべきものなのですから、自然科学は立派な思想なのです。それにもし自然科学というものが思想でないとしたら科学哲学などという学問分野はそもそも成立しようがないのですから。
話を戻しますと、その自然科学的な思想とは別の思想体系とは、人間の持つ理性的なものとは別の感情や感覚に依拠するものです。これを論理的に説明することは本質的には不可能です。そのシステムを体系的に説明し、科学的なものと主張するものもあるでしょうが、そうしたものも突き詰めれば所詮、「仮説」にその根拠を置いているに過ぎません。ですから、それは多くの魔女の思想で語られる神性の概念と突き合わせた時、神性なる者を神と呼ぶか、女神と呼ぶか、あるいはエネルギー体など疑似科学的な呼び方にするかの違いはあっても、好き嫌いというフィルターをはずすとそこには、根拠を神性に依拠する体系があるに過ぎないのです。
それゆえに私は「癒しは信仰に基づく」と考えるのです。この点については反論が出ると思います。しかし、逆に言えばペイガニズムなどの古代宗教にルーツを持つ宗教観はそうした自然科学的な説明ができない癒しの源は神性なものである、とみなしているということもできるのでしょう。もちろん、これはキリスト教などでも一神教か多神教かの違いとそこから派生する違いはあるものの同じような論拠を持つといえます。そしてそういう理屈で言えばおそらくどのような反論も論拠を失うでしょう。
ここで一つ誤解を招かないように付け加えておくと、「癒し」を行うときに必づしも神性なる者に意識的に祈りを捧げる必要はない、ということです。もちろん、祈りを捧げても良いのですが(私は捧げています)、意識的な祈りの生むは無関係に癒しを意識したとき人は誰でも宗教的にならざるを得ないのです。これは自覚的信仰を持っているかどうかは無関係です。
さて、それでは医学と癒しはどのような関係にあるのでしょうか。
一言で言えば私は「補い合うもの」と考えています。補完するもの、ではありません。完成も完結も保証されていないわけですから、あくまでも「補い合うもの」あえて言い換えるなら「支えあうもの」なのです。
癒しが為されたと言っても、薬が必要ないとか、手術が不要であるとか、病院の検査がいらないとかということは絶対にありません。病気の時には病院にいき、しっかりと医学的な治療を受けなければいけませんし、輸血拒否などに代表される「宗教的理由による医学の拒否」などはまったくナンセンスというよりも、人類、いやホモサピエンスであることすら放棄したといえるほどの愚か極まりない存在への堕落であると断言します。
そういう主張をする人は、どんなに差別的なそして侮蔑的な言葉を選んで、さらにその最大級の言葉を投げかけてもまったく足りないと断言できるほどの愚かしさの権化と断言して間違いありません。本来の癒しは迷信とは無縁のものなのですから。
同時にまた、医学的な治療を受けているからと言って癒しが不要とも言えません。神と女神は常に人が癒しを受けられるようにしてくださっています。自覚的宗教と習俗的宗教のような二者の対比と同じように、自覚的癒しと無自覚の癒しが存在するからです。自覚的癒しについて多くを語る必要はこの場合はないでしょう。無自覚の癒しは例えば、手術を受ける時の執刀執刀医や医療関係者、そして見守ってくれる人たちの「何とか治したい」という気持ち、そして本人の執刀医をはじめとする医療チームの一人一人に感謝したり、前後の看護を懸命に続けてくれた看護婦や家族などへの感謝の気持ちを持つならば、その感謝と謙虚さが祈りとなり、癒しはそれとはわからないように与えられるのです。
このように「癒し」というのは常に私たちに寄り添っているものなのです。一つ、実践的な話を蛇足として付け加えれば、こうしたことを理解しているかどうかは誰かに「癒し(ヒーリング)」に行うときの力に決定的なものを与えてくれるといえます。