「魔女は宗教である」とは私がよくいう言葉です。
少なくても私にとってWitchcraftは宗教であり、生き方であり、断じてオカルトや趣味ではありません。
しかし、この宗教というもの、本来は素朴なはずなのにこの現代日本に置いては大変扱いが厄介なものになっているのもまた哀しき事実といえます。
今回はインド哲学者・宗教学者の佐保田鶴治氏の著作の中の一節をテキストにその当たりを丁寧に書いてみようと思います。
佐保田氏がその著作『ヨーガの宗教理念』(図参照)の「はしがき」で以下のように書かれています。まだ古書では買えるようですが既に絶版になっている本なので以下少々長いですが引用します。
「現代は宗教が見失われた時代である。宗教を頭から否定するひとも、宗教を弁護し、宗教に寄りすがるひとも、全て宗教の実相を見損なっているように思われる。
(中略)現代の宗教界は立派な樹木のほとんどが立ち枯れてしまって、雑草だけが生い茂っている荒野なのである。
(中略)人間精神は科学知識だけでは生きてゆけない。人間精神が生きてゆくには科学知識以外のもの、なかんずく宗教性が必要なのである。人間精神は宗教なくしては飢え衰える外はない。
(中略)ところが、今日の宗教界を見渡してみて、心の飢えを癒してくれる所が見つかるだろうか?伝統を負うた宗教は形がいが残っているだけで、生命は枯れている。宗教の生命は人間によってのみ承けつがれる。いわゆる血脈相承によって宗教的伝統の生命は伝えられるのである。ところが科学文明のなかで、人間がその尊厳なる人間性を剥奪され、自らを動物並みの存在と見なすようになっては、偉大な宗教の生命を授受するに足る人間は育ちようがないのである。
これに代わって、人間性真の宗教的欲求を満たしてくれるかの如く見える雑多な宗教現象が在る。そこにはむせ返らんばかりの生命が在る。しかし残念なことに、それらは人間に一時的、部分的な安らぎを与えるだけで、時とすると、その虚偽を含む宗教性は人間の苦悩をますこそさえ少なくない。
物質文明の豊かな現代は宗教的には無知、蒙昧の時代である。(中略)
われわれは今こそ真の宗教の高い姿を見つけなければならない。(以下略)」
(佐保田鶴治『ヨーガの宗教理念』1976年 平川出版社)
これは脚注にあるように1976(昭和51)年に書かれた文章です。そしてその19年後の1995年(平成7年)にオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり、今やそれも風化してきつつありますが、これだけ時間が流れ、時代が変わってもここに書かれていることは悪化こそすれまったく改善はされていないのが現状です。
このテキストは日本でWitchcraftを実践している私たちが自分たちのことを考えるためのヒントの宝庫なので、丁寧に見ていきたいと思います。
"現代は宗教が見失われた時代である。宗教を頭から否定するひとも、宗教を弁護し、宗教に寄りすがるひとも、全て宗教の実相を見損なっているように思われる。"
これは現代でも寸分違わず当てはまる言葉でしょう。そして頭ごなしの否定も盲目的な信心も「宗教というものを全然分かっていない!」と否定されています。このことは私たちが絶対に忘れてはいけないことです。頭ごなしに否定する、ということはWitchcraftの実践者ならばまづする事はないでしょう。でも、願望達成のスペルなどにその実践が偏ってきたり、一般的な、というか受け身の姿勢での宗教観になってしまうと宗教を盲信するような、いいかえれば頭を使わずただすがるような宗教観になってしまいます。これでは「宗教は弱い人間がすがるものだ」という、世間でよく聞く宗教否定の常套句にそのまま当てはまる状態になってしまいます。これでは一部の破壊的カルト宗教の教祖が求めるようなマインドコントロールの状態になって、自分で考えることすらできない人間に成り下がってしまいます。これでは宗教を信仰したが為に不幸になるという本末転倒状態になってしまいます。佐保田氏が「全て宗教の実相を見損なっている」と断言するのもまったくもってその通りです。
"現代の宗教界は立派な樹木のほとんどが立ち枯れてしまって、雑草だけが生い茂っている荒野なのである。"
これは耳が痛い。私個人としては、一宗教者として「そんなことはない!」と反論したいところですが現実は全くその通りです。しかもその雑草の中にオウム真理教、法の華三法行等々といった宗教の皮を被った破壊的カルト集団もあるからなおさらたちが悪い。現実問題として立派な宗教が立ち枯れしている死んだ森の足元を質の悪い雑草が生い茂っている状態なのはだれも反論しようがないでしょう。そして私たちもその雑草の一つというポジションが少なくても形上は与えられているのは紛れもない事実なのです。それだけに、私たちがWitchcraftを宗教として実践していく上で、こうした有象無象の雑草に紛れないようにする気概は決して忘れてはいけません。同じ雑草でも
「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決め付けてしまうのはいけない。注意するように。」(昭和天皇陛下)
と人から言っていただけるような「名のある草」であるべきですし、そうあろうと常に心がけるべきです。
(2)に続く