2021年5月26日水曜日

伝統というもの(2)~僕らの世代の敗因~

 前回「伝統とは常に更新されなければならない」ということを書きました。そして、更新されない伝統は博物館の展示物のようなものにすぎず、古典的価値はともかくとして使い物にはならない、そんなものになってしまう、ということも書きました。

伝統を更新することについて多少の具体例を挙げて説明をしましたが、今度はもう少し大きな視点でこのことを書いてみます。

革新もしくはそれに近いキーワードでくくられる人たちの中には「伝統」や「伝統を大事にする人」あるいは「伝統を大事にする行為」自体を否定したり、古いは時代遅れと決めつける人がいます。しかし、それでは伝統を更新するのではなく、単に

「伝統を理解できずに反抗期の子供のようにいきがっているだけ」

というのがほとんどです。

こういうことを言うと「伝統なんかわかっている。その上で自分たちはものを言っている(もしくは活動している)」というような反論をされることがままあります。しかし、そういう人に伝統をどれだけ理解しているのかを具体的に問うと、単純な知識だけで伝統に触れた気になっているのみで、その心や奥深さはまるでわかっていない場合がほとんどです。ほとんどというか、ほぼ例外なく言えてしまうことは歴史的に色々な分野で繰り返されてきたことです。

伝統を不勉強で知らないくせに知ったかぶりで新しい時代を語る人は今までも多く現れては消えて行ったのです。伝統を破壊したり、伝統を新しいものに更新するには、伝統を熟知していなければできないということに気が付かない。そして、そういう人は最後まで気が付かないのです。

こう断言すると反感や反対意見を持つ人は多いと思います。また、私のこういう姿勢を年寄りじみた古臭い考え、という人もいるでしょう。若い頃の私もそういうタイプだったのでよくわかります(笑い

でも、もし私の言うことを否定するなら、例えば、今でも60年安保闘争の学生組織が当時以上に健在でなければいけないということになります。彼らは古い体制(これはある意味伝統と同じです)を否定し、新しい体制を声高に叫び立ち上がっていたのです。では、今現在どうでしょうか。これを見ている人の何割が当時の主役たちのことを支持していますか、と問いかけたいのです。支持している、支持していない以前に、これを読んで下さっている人達のほとんどは「60年安保闘争?歴史の教科書にあった気がする……」という程度でなのではないでしょうか。

これは伝統を無視したり、伝統に対して知ったかぶりして「革新性」や「新しさ」を旗印に伝統に対して戦いを挑んだ人たちの「完璧な敗北」に他なりません。歴史の中に埋もれ、誰にも見向きもされない革新、伝統はまだ「古臭いと言われつつ存在」していますが、その伝統に戦いを挑んだ革新はその存在と記憶すら消し去られているのです。

かくいう私も伝統などを「古臭いもの」と否定し、革新の名のもとに政治活動をしたこともありました。安保闘争の主流派の流れのセクトで活動したり、のちに(これは偶然でしたけれど)当時の全学連の委員長ら幹部だった方と一緒に仕事をしたこともあります。そうした実体験や、生の話、そしてその後の実情などをリアルに体験し、見聞きしてきたわけです。その経験は彼らや私の敗因が「伝統を知らずに伝統に立ち向かったこと」であり「伝統を分かったつもりになっていたこと」だということを色々な角度から検証させることになり、それを痛いほど実感しました。

一時の熱狂は簡単です。

それを創るのも簡単です。

また、それはとても新しく活発で未来に続く素晴らしいものに見える事があるのも事実です。

また大変勢いがあり、華やかにも見えるでしょう。

でもそれは歴史の中に花火のように現れて消えていくあだ花に過ぎないのです。

根のない花はやがて無残に枯れていくのです。

結局、伝統をしっかり学び、伝統の中にしっかりと入り、伝統の堅苦しさやくだらないしきたりなどを経験し、伝統を熟知するという経験をしていない限り、伝統を乗り越えたり、破壊したり、ましてや更新して「新しい伝統を創る」ことなどできないのです。

これは魔女の世界というだけの話でなく、文学、芸術、学術、宗教、政治等々、どんな分野に対しても共通して言えることなのです。そしてそれは歴史がそれを雄弁に語っているのです。

私はあらゆる分野において声高に呼びかけたいのです。

「若人よ、伝統を謙虚に学び尽くし、知り尽くし、そして新しい伝統を創り出せ!」

と。