2021年5月20日木曜日

伝統の中の知恵

 第2次湾岸戦争の折り、イスラームの法学者と共に祈った時、話の流れから「伝統がいかに大切か」という話をしみじみとしたことがありました。また友人の仏教僧と伝統をどう活かしていくべきか、などという話で盛り上がることが今も時々あります。

伝統、と一言で言ってもその言葉の持つ意味は様々です。同時に伝統の持つ重みはどの視点で見るかで千変万化ともいえます。

宗教における伝統は色々な視点で診る事ができますが、その大事な一つに「人を育てる知恵の蓄積」という視点があります。宗教の伝統というのは、その宗教に関わっていく人たちが、その教えの中で人間的に成長する為に先人たちが工夫し、見つけ、あるいは創りあげていった経験に基づく知恵の蓄積といえます。今回はこの視点での伝統についての話をしたいと思います。

伝統のある宗教の伝統には、宗教を問わず、程度の差や表現の差こそあれ人格者と一般的に呼ばれるような人を育てる知恵があります。そしてそれはどの宗教でも、その宗教の信仰者には等しく与えられるわけです。その上で、それをしっかりと自分のものにした人が人格者と認められ集団の中のリーダー(その宗教内とは限りません)となる、というシステマティックな知恵の体系があるものです。

このリーダーを育てる知恵というのは文字通りの宗教内でのリーダーという意味もありますが、まっとうな宗教が社会に奉仕することを目的の一つとしていることを考えれば、同時に社会のリーダーたる人を育てるという意味もあります。そもそも本来宗教が考えるリーダー像は、自分が何も言わなくても、周りから尊敬され、この人のようになりたい、それにに続きたい、と思わせるような人格者であることによるものです。その意味では、宗教の伝統がもつリーダーを育てる知恵が等しく信仰者全員に与えられることは当然ともいえるでしょう。

なぜそうしたリーダー像を宗教が求めるかといえば、それはある意味当然のことで「こんな立派な人に自分もなりたい。この人のようになるにはどうしたらいいか?ああ、そうだ。この人の信仰している宗教から自分も学べば良いのだ」というように多くの人に感じさせ、それによってその宗教を結果的に布教する人を育てるためにそうしたリーダー像を求めるのです。

そこにはいわゆる宗教の勧誘のような物は一切介在しません。「そこで学びたい」「あの人と同じところで学びたい」と人に思わせるような立派な人を育てるだけで良い、という至極まっとうな考え方です。そこにはとてもシンプルに「存在自体が人生の指導者」とでもいうべき人格養成が求められているだけなのです。そもそも「学ぶ」ということが「真似ぶ」という所からきていることを考えれば納得のいくことだと思います。

さて指導者という言い方をしましたが、これを説明するために一般的な教師と宗教者との違いを考えます。両者とも同じ「人に何かを教える」ということを行うわけですが、教える内容の問題を越えて本質的に大きな違いがあります。

例えば、学問などの場合は、教師はあくまでも学生よりも上です。だから「上からものを教える」という形でよいわけですし、そうした姿勢を当然求められます。学生の目線に立って、というのが大切だということもありますが、それは生活指導などの話であって、本来の仕事における前提は絶対的に教師の方が上である、という保証が求められるのです。その上で、学生の目線に合わせるのです。

ところが宗教者の場合は常に対等の人間として語ることが求められます。圧倒的な知識量や経験があればあるほど、対等な人間として相手に向かうことが求められるのです。

この違いは、いいかえれば、教師は上に在る上で学生の目線に降りていくことが求められるのに対して、宗教者は「対等の人間として目の前に立つ」という前提の上で、例えて言えば「こんなにも上に立てるだけの人なのに自分と同じ位置にいてくれる」という感動を与えることを求められるのです。人より上に立てるものを身に着ければつけるほど上に立たないようにする事が求められる、という言い方もできるかもしれません。

もちろん、宗教にも知識の部分はあります。当然司祭が後進の司祭を指導する場合は教師的になる必要があるでしょう。また信徒を正しく導く義務もありますからそうした時は教師と々姿勢が求められるのは当然です。しかし、それが本質ではないのです。その辺の「身のこなし方の知恵の集積」がある意味宗教の伝統の中の大きな意味としてあるともいえま。

私は常々、宗教者には、やさしさと謙虚さ、そして決して卑屈にならない強さと自分に対しての厳しさ、それだけがあれば十分だと思っています。その上で教義とか儀式とかその辺は自分の信じる神性に従ってやればよいのです。要はどんな宗教でも宗教者は自分をこのように律し、戒めておけばよいのです。宗教は所詮「人を活かす道」のひとつに過ぎないのですから。

そうした上で、宗教は「人を育てるもの」である必要があり、その「人を育てるための知恵の体系」が蓄積されたたものが宗教の伝統の大きな意味の一つなのです。