何回かに分けて、伝統というものを私がどう考えているかを書いてみたいと思います。
伝統を受け継ぐというのは、簡単にいえば
「先人達が今まで積み重ねてきたものを受け取る」
ということになります。そこまでは誰もが問題なく納得できるところなのですが、問題はその後どうするか、だと私は思うのです。
私の受け継いだ魔女の伝統には
「伝統を削ってはいけない。新しいものを付け足していくもの」
という大原則があります。おそらく明文化はしていなくても同じような原則を持っている流派は多いのではないかと思います。これは
「魔女狩りの時代に先代から受け継いだものを正確に次につなぐ為に恣意的な取捨選択をはさまないという為」
に決められていることだと習いました。そして何かの事情で新しいものを付け足した場合でも元々がどうだったかを残しておくことで何代か先の後進でも元に戻って検討できるようにしておくことが大切なのだとも習いました。
これは非常に大切な考え方で、伝統というものは絶えずその時代に合わせて更新されるべきもので、古臭いものを金科玉条として守っている、というものであってはいけないのです。かといって、新しいものを考えた人の考えが常に正しいという保証もないのでいつでも元に戻って考えられるようにしておく事も大切なのです。それになにより、キリスト教に魔女狩りなどで殲滅しようとされた伝統を命懸けで守った先達の努力を誰かが削ってしまうことは同じ流派を受け継ぐものとしては許されない事なのです。
たとえば、カード占いの意味に「手紙、電報」いうのがあったとします。これはやがて「手紙、電話(時に電報)」と変化し、更に今だったら「メール、チャット、電話」とする方が読みやすいでしょう。このように伝統的なものも時代に合わせて変化させていく必要があるからです。でも、このように「変化させて終わってしまってはいけません。
まづ、元の意味も残しておかないとまた今の私たちが想像もつかない伝達手段が出てきたときに「メール、チャット」などを加えたときと同じように、という前例を残しておくべきだからです。
また、今の時代だからと言って手紙がなくなったわけでも、電報がなくなったわけでもありません。事実郵便局は毎日大量の手紙を扱っているわけですし、つい最近、私も電報を受け取る機会がありました。やはりこれだってなくなっていないのです。だから、本当は、
「手紙、電報」
→「手紙、電報、メール、チャット、電話」
というように「意味を足していく」のが正しい在り方だと言えるのです。
伝統というのはこれに似たものがあります。わかりやすい例でいえば、伝統的なお香のレシピの中には現代では手に入らない材料が指定されていることも多々あります。こうしたものは、まだ手に入る(しかし、手に入りにくくなった)時代の先人が色々と比較検討をして、代替品となる材料の指定を残してくれていることがあります。そして、現代では元々の材料が原料となる動植物の絶滅などで入手不可能になってしまいその代替品の方だけが現実的なものとして残っています。しかし、だからといって「元々のレシピに上書き」してはいけないのです。今現在使う材料が「元々は何の代替品だったか」ということはしっかりと残しておかなければいけないのです。なぜなら、より時代が進んだ時に、より元の材料に近いものが見つかるかもしれません。また、より効果的な方法が見つかることもありますし、より簡単な方法が作られることもあります。こうした場合でも元になるものはしっかり残した上で、そのどれをどう変化させたかを明示しておくことが大切です。元のレシピが残っていなかったらそうした研究を後の時代にすることができなくなってしまいます。また、元に近づけば近づくほどその材料に求められている考え方の本質が残っているのは当たり前なので、その材料に込められた思想や知識を入手可能性など本質と関係のない理由で「歴史から削って」はいけないのです。
伝統とはこうした更新の仕方よって元々の意味をしっかり後世に伝えつつ新しい伝統が継ぎ足されていくものでなければいけません。これは自然科学でも科学史(数学史、物理学史、化学史等)という形で同じ方法が取られているので、理解しやすい考えだと思います。
このように伝統というものは古いものを大切にしつつ、新しいものを加えていく、しかしそのルーツは大切に残しておく、という形で常に更新されるものでなければならないのです。そうでなければ、伝統というのは、ただの骨董品や古くさい博物館の展示物の様なものにすぎなくなってしまい、使い物にならなくなってしまうからです。