私は高校の頃、国語は得意でしたが英語はどうにも苦手でした。中学生の頃は良かったのですが、中学3年生の時に半年以上入院してからまったくわからなくなってしまい、わからなくなったらまったく面白く無くなり「なんで日本に住んでいる日本人が英語なんかやらなければいけないのだ?どうせ一生そんなに使うことはないのに」(将来インターネットなどが現れるなど予想もしていなかった……)とうそぶきながら、完全に捨て去りました。
そんなこんなで私の英語力は年々ひどくなり、高校2年の誕生日に国語の先生に英単語集をプレゼントされたり、高校3年担任だった英語の先生には放課後呼び出され、涙ぐみながら
「正直に言ってくれ… お前、俺のこと… 嫌いか?他の科目はそれなりなのに、英語だけここまでひどいというのは……俺のせいか?」
と言わせてしまうほど追い詰めてしまったり、挙げ句には同じ試験問題で7回卒業試験を受けどうしても30点が越えられなかったので、採点後に先生が無言で消しゴムを手にとり私の名前を消し、
「名前をローマ字で書け、それで30点超えたことにしてやる」
と、言われて卒業させてもらいました。
そのくらい英語はダメでした。
その数年後、ある大学で英語を教えている先生に出会うきっかけがありました。ちょっとしたご縁で、その先生に教えて頂いた(しごきまくられた)おかげでとりあえず、人並みの語学力にしていただきました。ずいぶん後でその先生が英語学のある分野では「謙遜しても世界トップ3」だということがわかり心底びっくりしましたが、人生で出会った先生の中で一番厳しかったと同時に、一番学問の面白さを教えてくれた先生でもありました。その後、その先生の紹介で国文学の先生のところにもしばらくご厄介になったりもしていました。
そのような感じで結果的に比較言語の世界に数年身をおいていましたが、そこで学んだことはいくつかありました。
一つ目は、自国の文化や言語を大切にできない人は外国語をいくら勉強してもまるでダメ、という真理です。自国の言語などを大切にできない人はいくら外国語ができても所詮は「本人が外国語が得意と思っているだけ」で結局ものにならないということです。人間は母国語でものを考えるようにできています。なので、母国語を大切にし、その背景にある文化を大切にしなければ考えるベースがない状態で外国語を弄んだところで、書く内容も、話す内容も薄っぺらく、読解力にしても文字面を追っているにすぎないのです。これでは精々が高性能な翻訳ソフト人間、という感じでしょう。
二つ目は、自国の文化や言語を軽んじるか、あるいは外国のそれを自国のものよりも価値があると思っている人も、いくら外国語ができてもダメだということです。簡単な例を挙げると語学を習うなら全員外国人がよいと思っていたり、外国に行くことがなにより大切(もちろん、留学はどんな場合でも得る物があることは十分認めていますが)だと思っているような人は自国のことを学ぶより、外国語や外国文化を学ぶことの方に、より価値があると思っている傾向があります。こうした人もやはり性税が翻訳ソフト人間です。言語が人と人をつなぐものだということが頭から抜けているのです。相手の言葉を理解し、相手に自分のことを理解させるのに言語だけ立派でもダメなのです。
ずいぶん前の話になりますが日本の外交官が柿本人麻呂について尋ねられて、まったく答えられずに国際的な恥を書いたということがありました。外国人、特に知識階層の外国人は自国の文化を大事にしています。そして当然のこととして、外国人である私たちも同じように自国の文化を大事にう誇りを持っていると信じています。だから当たり前のこととして、日本人なら誰でも源氏物語や柿本人麻呂、浮世絵などについては深い理解をしていると信じています。
今の若い人(基準としては生まれたときから携帯電話があった世代以降の人)たちはCDが当たり前にある世の中に生まれ育っているのでいくらでも音声教材が手に入ります。また学校にもネイティブの先生に触れる機会が全国に普及しています。だから昔の日本人(私もそうです)に比べてけた違いに平均的な英語力は上がっています。しかし、それに反比例するように源氏物語や柿本人麻呂について説明できる人は減っています。
日本のような島国ではなく、地続きで他国とつながっているような国の人になればなるほど自国の文化を大切にしています。もちろん、島国だからというのは言い訳にもなりません。例えば英国人などもこの例外ではないからです。逆に自国の文化を大切にしない人は外国では軽蔑対象にしかならないのです。ですから、どんなに外国語を勉強しても、自国の言語や文化を大切にしない人はその外国語の知識や技術は学国に恥をさらしにいく準備をしているに過ぎません。
三つ目は今までお話したことのベースでもありますが、自国の言語と文化を大切にしていなければ外国の言語と母国語の対応が単語集形式にしか頭の中で対応できず、言語の持つ奥深さを理解することが決して叶わず、所詮は薄っぺらな言語認識になってしまうのです。言語認識が薄っぺらいものだと、その人の語る言葉には人を動かす力が当然ありません。
これらについてはきちんと述べようとすればそれだけで一つ一つがかなりの分量になってしまいますので今回は軽く目次的な触れ方にしますが、これについても魔女として日本で生きていくには色々と重要な部分があります。
例えば、スペルなどの時の祈りの言葉や呪文を「自分の言葉として唱える場合」にはやはり日本語で唱える方が効果的である、という事の理由と根拠はこうしたところにあるのです。
こうした一見、魔女とは無縁のことが、日本で魔女を実践していく上では本質的に大切なことにつながっている、ということは色々とあります。機会をみてこうしたことも少しづつ書き足していこうと思っています。