2021年5月6日木曜日

魔女としての宗教とのつきあい方(2)

(続きです)

"人間精神は科学知識だけでは生きてゆけない。人間精神が生きてゆくには科学知識以外のもの、なかんずく宗教性が必要なのである。人間精神は宗教なくしては飢え衰える外はない。"

これも全くその通りです。「立派な樹木のほとんどが立ち枯れ」と言われるほど伝統的な既存の宗教は心の中に抱えた自分の切実な思いに、あるいは訴えにといってもいいのかもしれませんが、そうしたものに対して(一部例外は在るでしょうが)十分に応えてはくれていないと思っているのが普通の人の感覚ではないでしょうか。だとすれば、一般的な日本人が「宗教なんて……」という思いを抱くのは当然です。これは宗教が本来の基本的な役割すら果たしていない、少なくてもそうした宗教が殆どだ、ということです。

すこし話がそれますが、ここで重要なのは私たちも伝統的な既存の宗教が応えてくれない「心の中に抱えた自分の切実な思い」を抱えている当事者である(あるいは当事者であった)、ということを自覚すること、そしてそれ忘れないでいることです。これを自覚していないと、あっちふらふら、こっちふらふらとしてしまい、何年もの時間の無駄をしてしまったり、自分の実践の軸がぶれまくってしまったり、挙げ句には自覚がないままにわけのわからない状態になってしまう危険が大きいからです。こうした自分の心を見つめたり、見直したりする事は意識的に折に触れてすべきです。

本題に戻ります。ともあれ、私たちがWitchcraftの道を求める(求めた)のは自分の中にここでいう「人間精神の飢え」を感じていることが本質の中に、程度は別として存在するのです。

"ところが、今日の宗教界を見渡してみて、心の飢えを癒してくれる所が見つかるだろうか?伝統を負うた宗教は形がいが残っているだけで、生命は枯れている。"

これは困ってしまいます。と、いうのも「人間精神は宗教なくしては飢え衰える外はない」というのに、伝統的な宗教は形骸しか残っていない、というのですから。

ただ、少し自分を振り返ってみてください。オカルトとして魔女の道を進んでいる人は別として、Witchcraftを宗教として捉え、あるいは宗教遍歴の後Witchcraftにたどり着いたような人ならば、この「困った状態」を実感できるのではないでしょうか?少なくても「そのような気持ちを持ったことが在る憶え」はあるのではないでしょうか。かといって、へたに新しい宗教にと思っても、それがもしかすると破壊的カルトかもしれない、という不安があり、結局心の中に重いものを抱えたまま、という状態を抱えていたことがあったのではないでしょうか。

実際にこういう気持ちを持ったり、そういう状態にあったかどうかは別としても、これは誰しもが理解しやすい「困った現状」ではないでしょうか。

"宗教の生命は人間によってのみ承けつがれる。いわゆる血脈相承によって宗教的伝統の生命は伝えられるのである。ところが科学文明のなかで、人間がその尊厳なる人間性を剥奪され、自らを動物並みの存在と見なすようになっては、偉大な宗教の生命を授受するに足る人間は育ちようがないのである。"

これは少し過激な言い方ではありますが、私にはそれなりに実感できるものでもあります。また、この文章を読んでくださっている人も感覚的に実感できる人が多いのではないでしょうか。

ただ、多くの一般的な人にとってどうなのかな?という疑問は多少あります。と、いうのも多くの人たちは人間の尊厳である人間性を無自覚のままなくしつつあるように思うからです。自分の権利の主張ばかりや他者への批判、科学万能主義と合理性の中にある謙虚さの不在、そうしたものを当然としている人が残念ながら多くなってしまっているのではないでしょうか。

もちろん、ネットなどでよく見かける自然科学的エビデンスを無視した一部の(?)スピリチュアルの人たちや、一部の(?)陰謀論者たちのような基本的な頭が悪い人たち(これは差別用語的な意味ではなく、私のように足が悪い、目が悪いというのと同様に「この部分が悪い」という意味です)は既に人間性を失うどころか人間であるかすら怪しいので当然初めから範疇外ですし、そもそもこの議論の中での存在自体が不適です。もっともこうした種類の人が「しばしは魔女を自称する」することがあるのには毎度頭が痛くなるのですが。

それはともあれ、そこまで極端でないとしても、科学万能、合理主義、個人主義(しかも本来の個人主義の心は輸入されていない!)を前提とした教育を受けているうちに殆どの人が心の中にモヤモヤしたものを抱えつつも人間性を捨てさせる方向へと知らずに導かれてしまっているのではないでしょうか?

これも前回の最初でお話ししたような「頭ごなしの否定も盲目的な信心もダメ」ということが成り立つのでしょう。自然科学、合理主義などを頭ごなしに否定して精神論などを論ずるのは当然ダメですし、逆に科学万能、合理主義最優先という思考もダメなのです。

さて、魔女にとって大切なことの一つに「自分自身を知る。自分自身について深く見つめる」というものがあります。言い方は多少違っても、このことの大切さが強調されることはわりと多く見られます。しかし、いきなり「自分自身を深く見つめなおせ」等といわれてもどう手を着けるか、最初のうちは困ってしまう場合が多いのではないでしょうか?そうしたとき、ここでお話しているようなことをヒントや手がかりにして実践してみると、最初は難しいかもしれませんが、だんだん上手に深く見つめなおすことができるようになると思います。(それでもうまくいかなくて困っている人は遠慮なくご相談ください)

少し余計なことをお話ししますが、Witchcraftは宗教である、とは私の口癖の一つですが、だからといっていわゆる宗教のように実践者(一般的宗教では信者)を増やすことを目的に布教活動をする事はまともな魔女ならしませんし、誰か特定のリーダー(一般的宗教では教祖)を崇拝したり、絶対視したりすることはありません(そもそもWitchcraftが神秘宗教なのである意味本質的に当たり前なのですが)。しかし同時にこれは初心者からすると明確な指導者がいないのでどうしていいか技術的な部分で困ってしまう、ということもよくあります。今回もそうですが、そうしたときの何かの手がかりや参考になればいいなと思ってこうした文章を書いていることが私の場合は多いです。なので、この文章にしても部分的には賛否両論あると思います。もっと言えばなければ困ります。そのためにあえて極端な物言いをしているところもあるのですから。でも、それでいいのです。いや、それがいいのです。どの部分に対してどの立場でも自分の考えを持つこと、それが大切な訓練の一つになっているのですから。

閑話休題。

続きを見ていきましょう。

"これに代わって、人間性真の宗教的欲求を満たしてくれるかの如く見える雑多な宗教現象が在る。そこにはむせ返らんばかりの生命が在る。しかし残念なことに、それらは人間に一時的、部分的な安らぎを与えるだけで、時とすると、その虚偽を含む宗教性は人間の苦悩をますこそさえ少なくない。"

これは伝統宗教の分派の形をとった商売っ気たっぷりの宗教団体や、宗教の皮を被った破壊的カルトの跋扈などを考えればよくわかります。そして、オウム真理教などもそうでしたが、そうした団体ほど、既存の宗教がなくしてしまった、それこそむせ返らんばかりの生命があり、熱い情熱や一人一人から伝わってくる命懸けの真剣さがあったりするので、それに圧倒され、感動し、捲き込まれていって人生を踏み外してしまうこともよく見かけます。これが同時に多くの人にとっての宗教の悪いイメージのプロトタイプとなってしまい、きちんとした宗教からまで遠ざけてしまうのです。

"物質文明の豊かな現代は宗教的には無知、蒙昧の時代である。"

現状では仕方ないとはいえまったくもって嘆かわしい限りです。

"われわれは今こそ真の宗教の高い姿を見つけなければならない。"

これは本当に私の個人的な考え出しかないのですが、こういう時代、こういう環境の中だからこそ、Witchcraftの実践者にはこのくらいの高い志を(少なくてもいつもどこかには)持っていて欲しいと思うのです。