あった方がいいか、ないほうがいいか、判断に迷うものというのは結構あるものです。
例えばプライド。自尊心とも言いますが、確かにないよりはあった方が良いものです。でも、それがどのようなものか、によっては話が変わってきます。世の中言動からしてプライドの高い人というのは意外と多いものです。しかし、どうもそうして人々の話を聞いていると「その人の実力とプライドが見合っていない」場合が多く感じます。
よく自分がこれだけのものを積み重ねてきた、ということを言いたがる人がいます。特に年配なると増えてきます。こういう人はえてして例外なくプライドが高いです。しかし、彼や彼女の話を今までそれこそ数多く聞いてきて「なるほどこれは大した人だ」とか「なるほどこの人のプライドが高いのは当然だ」と思わせてくれた人は残念ながら一人もいません。本当に残念です。むしろ
「この人は今の自分がとんでもなく恥ずかしい存在であることに一生気がつかないのだろうな」
とすら思います。
ある人のプライドが本物か紛い物かを見分ける簡単な方法があります。それは「その人が卑屈になる事があるか?」です。本人のプライドとは無関係の部分でもどこかに卑屈さがある人のプライドというのは間違いなく「分不相応なプライド」です。これは例外なく当てはまります。ただ、時々「分不相応なプライド」に対して自信満々という人もいて、こうした人はこれの例外になることが多いようです。とはいえ、この手の人はこうした判定基準を使わなくてもすぐわかるくらいには分かりやすいみっともなさをさらしているのであまり問題ではないでしょう。話を戻しますが、この判定基準はその相手をある程度知ってからでないとわからないことが多いです。なので、そのほかの共通点を考えてみましょう。
共通点の第一は「自分に自信がない人」と言えます。自信がないから自分の今までの歩みを謙虚に受け止めることができず、自分が大した者であるということを主張するために「積み重ねてきたもの」とか「キャリア」とかという類の言葉を主張するのです。こういう人には「はじめの一歩すら立派なキャリア」に感じてしまうのです。この手の人にそうした真実を指摘してもかえってむきになって自己主張をするものです。面倒くさいですね。逆を言えば、そういう反応をする人はこのタイプの典型、と言えるのです。
次の共通点は「プライドの根拠に他者依存が多い場合」です。例えば資格をいくつ持っているとか、誰それの弟子であるとか、そういう類のものです。たしかに資格をいくつもとるのに努力はしたと思います。しかしそれで天狗になっている人が多いのも事実です。これもみっともない。そもそもある資格の最高ランクのものを取ったとしても「その資格を認定する人」が圧倒的上位にいるということを失念しているのでしょう。
私のよく知る人にそれこそ数えきれないほどの資格を持っている方がいます。しかし、彼は高度成長期、そこからバブルにつながる好景気の時期、そしてあのバブル時代を通して毎週きちんと職安に行ってまじめに就職活動をしているにもかかわらず、今現在を持って未だ生涯一度も正社員になれたことがありません。各々の時代を知っている人ならわかると思いますが、これはとんでもない偉業であり、伝説を超えて神話と言っていいほどの実績です。それでも、彼は資格を増やすことに余念がありません。そして当然、彼のプライドは天より高いです。
さて、最初の「自信がない人」というのはまづ100%全員共通ですが、それよりはパーセンテージが落ちます。と、いうのも資格などをとる努力すらなしに、プライドばかり育てている人もいるからです。
もう一つは比較的色々なジャンルのプロの世界に多いのですが、我流で今までやってきたので客観的な比較対象がなく、その結果自分の実力を過大評価していたり、「自力でここまで上り詰めた」という妙な自信ばかり肥大化させて、我流ゆえに基礎の部分で間違っていることに気が付かず、その上に砂上の楼閣を建てているタイプです。このタイプの人はなまじ今まで努力をしてきているのがわかるだけに気の毒です。でも、やはりみっともないことには変わりありません。ちなみにこうした人はその実、人の目や、噂話のレベルを含む人の評価や、成功していると自分が感じている人と自分を比べてみたりして心の中に、時として表面化させながら卑屈さを同時に育てているものでもあります。
その他にも細かいことを考えれば、色々と共通点は出てきますが、大きなものは大体この程度でしょうし、これだけで大抵の見分けはつきます。それにこれ以上そうした人の研究に時間を使うのは、限りある人生の中で無駄というものでしょう。
結局、これらすべての根底にあるのはこうした人たちには共通して
「謙虚さが致命的に欠けている」
ということです。自分がどれほどの者か。これを決めるのは残念ながら自分ではないのです。そう考えると「謙虚さがない人という烙印を簡単に押せてしまえる人」になってしまうということは、なんともみじめで恥ずかしいものです。そしてたいていの場合、本人はその恥ずかしさに気が付いていないから余計哀れです。
もちろん自尊心というものは大切です。それなくして誇りも責任感も持てませんし、卑屈さや劣等感をいつまでも追い出せません。しかし、そこに謙虚さや客観性がなくなると恥ずかしく、哀れでみっともない、しかし自分では自分の事を「それなりの人物」と思っている、という道化が完成してしまうのです。
少し乱暴ですが、一言でまとめれば「実力の裏付けのないプライドは捨て去れ」ということになるのでしょう。これができて初めて「本当のプライド」手にする事ができるのです。