2021年4月10日土曜日

私にとっての書くことの意味と自意識過剰

私がブログやツイッターなどで何かを書くと

「これは私のことですか?」

とか

「これは私に対する嫌味ですか?」

等というご質問を頂くことが大変よくあります。

私の書くものをよく読んでくださっていることには素直に感謝なのですが、私はいまだかつて

誰かを頭に置きながら文章を書く

ということは、手紙やメール等の私信を書くとき以外ありません。と,いうか、そこまで私は他人に興味を持っていません。そもそも私にとって文章を書くという行為は、

書きたいから書くのではなく、書くという行為が自分にとって必要だから書く

というものなのです。例えるなら、吸った息を吐かないと生命維持に問題が出るのと同じようなものなのです。もちろん、著作権を無視して流用されるのは困りますが、私が自分が書いたものに対してそんなにこだわらないのもそうした事情からなのです。誰しも自分の排泄物に(特殊な趣味でもなければ)こだわったり、必要以上に所有権を主張したりしませんよね?

さて、誰でも自分の生命維持活動に他人を意識は普通しないと思います。だから、私は誰かを頭に置きながら物を書く、ということは私信など以外ではあり得ないのです。

それでも、こういう質問を何度もしてくる人が少なからずいます。そうした人は私にとって不可欠な存在だと思っているのでしょう。しかしながら、私はそのように他人に依存はしません。だからこういう質問をしてくる人は

「自分はかけがえのない素晴らしい存在」
「自分は自分以外の人にとって大切な存在」

という意識が程度の違いは別としてあるのだと思います。
こうした自己評価ができるようなナルシスティックな気持ちをもてるというのは幸せ者だと思いますか、それを外部に表現したとき、それは単なるorかなりイタイ「自意識過剰」に過ぎません。

ただ、一つ思ったのは「これは自分のことを書いたのでは?」思ったということはその人には十分思い当たるフシがある、ということでもあるのでしょう。そしてそれを「嫌味」などとらえるというのは「そういうことをやらかしてしまっているという自覚」があるということでもあります。

そう考えるとそういう反応を頂くのもある意味面白いですね。