2021年4月29日木曜日

用語集

 網羅性はともかくとして、よく使う言葉を中心に用語集を作ろうと思い立ち、昨日から急に書き始めました。

最初は簡潔な用語と説明、という簡単なものを考えていましたが、実際書いてみると「どうせならもう少し書いておこうかな……」などという気になってしまい、どちらかというと「調べるための用語集」ではなくて「読むための用語集」になってしまいそうな感じがしてきました。

今まで書いてきたものと違って「思い立ったら一気に書く」という用にはできないので、私にしては長丁場な物になりそうです。しかし書きながら「これについての小冊子を書いても面白そうだな」と思うものがあらためて用語を見直す中で出てきてしまい、それがちょっと困りものです。

2021年4月17日土曜日

Witchcraftと他の宗教について

 かつて日本にはじめてWitchcraft(Wicca)を持ち込んだアレクサンドリア・木星王氏は、当時は情報の正確さを今のように確認する術が非常に乏しかったという時代背景もあって、一時期は悪魔主義と混同していたり、色々な大きな間違いをそのまま輸入したりしていました。しかし、氏が最初からWitchcraft(Wicca)を「宗教として」捉え、輸入していたことは非常に高く評価されるべきであり、ある意味他の間違いなどを帳消しにするほどの価値があったと断言しても差し支えないでしょう。


それまで、日本では魔女や魔女による呪術などはオカルトとして扱われるのが普通であり、そこに宗教的なものを認めようとする姿勢は皆無でした。しかし、氏が「魔女とは宗教である」という姿勢を最初から一貫していたことはこうしたオカルト一辺倒の、ややもすると単純な現世利益でご都合主義のお遊び的なものから、Witchcraftに興味を持つ日本人を卒業させる大きなきっかけを作ったことは疑いようがないからです。しかし、だからでしょうが、彼はかつて通信教育のテキストや著作の中で

「Witchcraftは宗教である。だから、この道に進んだら神社に初詣に行ったり、クリスマスを祝ったりすることは心して避けるべきである」

というような主張を何度もしていました。これは私の考えからすると全面的に正しいとは間違っても言えませんが、一概に間違いだとも言えません。

そこで私は以下のように考えるのが順当だと思っています。

まづ、日本でWitchcraftを実践する場合「Witchcraftと神道の違い」をしっかりと自覚する必要があります。と、いうのも日本の神道は民俗宗教であり、Witchcraftも元を正せばヨーロッパの民俗宗教にルーツを持ちます。そうすると、海外の、特に欧米の人から見ると

「日本には神道という民俗宗教であり、ある意味Witchcraftよりも強い呪術性を持つ宗教があるのに、なぜわざわざ日本人がWitchcraftを実践する必要があるのだろう?」

という素朴な疑問を持つからです。そして、日本でWitchcraftを実践するに当たってどうしても神道との共通点や相違点を理解していないと段々と

「おかしなものを実践するおかしな人」

になってしまうからです。また、仏教についても自分なりのスタンスをしっかりと確立しないとたとえば、

「生きているうちはWitchcraft、死んだら仏教の戒名(ホーリーネーム)をつけられて葬られる」

というこれまた不思議な事になってしまいます。しかし、こうしたことをしっかりと自分なりに整理しておけば神道や仏教徒のつきあい方は自ずと見えてくるでしょう。


難しいのがキリスト教です。そもそもWitchcraftはキリスト教以前の古い宗教であり、キリスト教から弾圧された過去を持っています。加えて、キリスト教は古い宗教の祝祭をキリスト教化して奪い取ったという事実がいくつもあります。また、こうした古い宗教のWitchcrafではない、キリスト教以降の魔女の宗教の実践者の多くはキリスト教国でキリスト教に疑問を持ち、

「キリスト教のカウンターとしての魔女の宗教」

の実践者となっているからです。なので、極論を言えば(と、いいつつ本当は極論でもなんでもないのですが)、

「キリスト教という視点」

を持たないと、Witchcraftを始めとした魔女の宗教やペイガニズムを本当に理解することは困難なのです。

なので、Witchcraftの実践者はイニシエイションの後、ある程度の経験(それでも年単位ですが)を積んだら少しづつ、神道、仏教、キリスト教からスタートして、ユダヤ教、イスラーム、ヒンドゥー教、宗教としてのヨーガなどは知識として学び、理解して置くことが大切です。そして、わかりあえる他の宗教の宗教者たちと、いつかは宗教者同士として語り合い、友情を結ぶことができるかもしれません。

ちょっと古い話になりますが、例えばかつて第2次湾岸戦争があったとき、私はWitchcraftの司祭として、日本のイスラームの礼拝所にお邪魔し、法学者の方々と3時間ほど語り合い、その後戦地の人たちの無事と戦争の早い終結と、その後の現地の人たちの幸せを共に祈りました。お互いがお互いを理解したとき、違った宗教の信仰者同士でも心を一つにする事ができるのです。

これは他の宗教を学ぶことの意義のほんの一例に過ぎませんが、自分の信仰を確固たるものとし、その上で他の宗教について真摯に学ぶ、ということはとても大切なことなのです。

かわらないこと、かわろうとすること

 10年くらい前からだろうか、同年代の人たちから「年をとった、年をとった」というセリフをよく聞くようになったのは。そうした話を聞くたびに内心「私は20代の頃からあまりかわっていないな」と、自分はまだまだ若い気でいました。また、仲のよい友人とも「お互い20代の頃から変わらないなぁ」などと笑いあっていました。


しかし、ちょっとしたことがきっかけで自分が若かった頃、ちょうど今の私くらいの人を見ながら「この人は時代後れだ」とか「古い考えから脱却できないんだなぁ……」などと思っていたことをふとリアルに思い出したのです。そしてよくよく考えてみると、当時の私には思いも寄らなかったことですが、若かった私にこういう感想を持たれていた彼らは「私は20代の頃からあまりかわっていないな」と内心思って、自分はまだまだ若いと思っていたのではないか、と気がついたのです。


つまり、年をとる、ということは考え方が年と共に年寄りらしく(?)「変化」して年寄りになるのではなく、ある時期から「変化しない」ことで年寄りになっていくのではないかと思ったのです。そして、その視点で自分や周りを見回していくと、なんと恐ろしいことにこの考えはどうも間違っていなそうだ、という不都合な事実にたどり着いてしまいました。


たしかに人間はある年齢からは寿命から逆算してできること、できないことを考えるようになっていくと思います。しかし、若い頃は待ちがっても「寿命から逆算」などという考え方はしませんでした。実はこの年をとってくると当たり前の「寿命から逆算」という思考を無意識にしてしまうことが人生における挑戦や前進を「正当な言い訳と共に止めてしまう」ものの大きな一つだとだんだんと実感してくるようになりました。そして同時に、こうした考え方が無意識に出てくると「自分が変化しないことを肯定的に」とらえてしまい、結果として、本当は進歩や成長を止めてしまっているだけなのに「自分は若い頃から変わっていない」という恐ろしい現状を精神の若さと勘違いしてしまうのです。


これに気がついたとき

「まずい、これは老人まっしぐらだ!」

と恐怖を伴った危機感を感じました。あれから10数年、実際どのくらい自分が若さを取り戻してこれたのかはわかりません。それでも、あの頃よりは少しくらいかもしれないけど若返れた気がしています。アンチエイジングという言葉がありますが、最後まで「精神のアンチエイジング」をしていくことが大切なのだと思います。また、そうした若さを保っていかないと若い友人たちに取り残されるばかりとなり、自分でも実感するほどに時代に取り残されて寂しく生涯を終えることになるのでしょう。無論、そうした人生の終え方に満足して逝く人もいるでしょうし、それを私は否定はしません。でも、私は嫌だなぁ、と明確に感じています。

2021年4月14日水曜日

近頃の若い者は……

人間年をとったな、と思う瞬間というのは節目節目でいきなり具体的な形で実感することがあります。とはいえ、年をとるのは誰しも避けることができないことなので仕方ないといえば仕方ない。


それは別として、今の若い人と私の年代を比較するとそこにはそもそものベースの違いが絶対的なものとしてある事を老若どちらの年代もしっかり自覚をしておかないとお互い根本的なところですれ違いを起して意思疎通不能になっているのにお互い気がつかないで突き進んでしまう。


ちょっと古い話をしますが(「」話とかぢやなひですよ……)、CDが世の中に普及し始めた頃、私は「あんなものには味がない。レコードの方がいいに決まっている」とCDを徹底的に馬鹿にしていました。そうしたある日友人が「CDプレーヤーを買った!」というのでその日の夕方彼の家に覗きにいきました。そしてその帰り道……


その足で電気屋に行ってCDプレーヤーを買って帰りました(笑い


あの音質の衝撃は凄かったですね。


もう少し前、40年くらい前の話ですが私は当時から原稿執筆をすべてワープロ(2000年2月で新製品は無くなりました)で行っていました。その当時


「ワープロは最後の文房具だ」


というのが私の口癖でした。しかし……1995年にWindows95が出た後、


「パソコンって素晴らしい……」


と、簡単に転びました(笑い


今の若い人には好きな女の子に電話したときに親が出たらどうしよう、等という悩みは持たないでしょうし、私の大学時代の友人のように「好きな女の子のお母さんに愛の告白」をしてしまうなどという恐怖体験はしようがないでしょう。


また、私が学生の頃は


「文章がうまくなりたければラブレターを書け」


という言葉がありました。これは明治時代の高校生(今の短大と同じくらい。高校卒業したら教員免許がもらえました。そこから更に帝国大学に進学すれば超エリート)がよく言っていたらしい言葉で、でも、これは昭和の時代には何だかんだ言って正論でしたが、今ラブレターを書く機会のある若者はどれほどいるのでしょう。


このような感じで昔成り立ったものが今はそもそも存在しない、ということすら普通になっています。


生まれた時からインターネットがあり、携帯電話があり、メールがあり、CDが安い媒体として普及し……これははっきり言ってそれ以前の時代の人間から見れば別世界の話です。私たちの頃はジェネレーションギャップといっても、前述したように明治時代から受け継がれ,それが成立していたものがいくつもありましたが、20世紀から21世紀に代わっていく中でそこにははっきりとした断絶が起こっていたのです。スタート環境がこれほど違えば発想も考え方も違ってきて当然です。


私たちが強要された根性論や行き過ぎた和の精神、そうしたものたちは姿を消した、というよりも今の若い人たちにはそもそもぴんとこない、のではないでしょうか。また、努力の尊さは変わらないにしてもその価値には大きな変化が出ているとも思います。それは当然のことで、同時に過去の遺物の方が良かったとはその時代を生きてきた私にも言えません。


近頃の若い人たちは20世紀に青春を過ごした世代とはべースという意味でも全く違っています。この「違う」ということをお互いに意識していることが大切なのだと思います。私自身そうですが、年をとるとかつて自分にとって価値があった概念や考え方を今でも通じるかのようにえらそうに若者たちに語りたくなる衝動が出てくるものです。私だってそれを否定はできません。しかし、そんな衝動は捨て去って、若い人に習い、若い人を頼り、若い人にまかせ、若い人の考え方を正しく評価する。これがもしかすると一番自分を老化させないコツなのかもしれません。


そして、そういう気持ちで入れば、若い友人たちと対等に人生を楽しむことができますし、劣等感というものからも開放されます。還暦過ぎて若い人に劣等感をもつとか、どう考えてもみっともないですしね(笑い

2021年4月13日火曜日

ポリシーとまんねり

かなり以前からファンだった作家の久々の新作を拝読しました。ところが、今回はなぜか「新作が出る」という広告を見た時から、つまりまだ題名も知らないうちから、かつてのように積極的に読みたいと思いませんでした。思わなかったというか、もっといえば思えなかった、という方が正確かもしれません。


その理由はわからなかったのですが、気が付くと発表されていて、更に数日してから、しかも人から著書を手渡されて初めて読むという今までにない経験をしてしまいました。これまで発売当日に必づ手に入れていた私としてはあり得ないことでした。そして一通り読んだ後、なぜ自分が今回の作品に対して今でと違っていたのかがはっきりしてしまいました。もちろんつまらなくはないのですが、正直面白くもなかったのです。


もちろん、書いてあることには非常に共感できるし「いかにもこの作家という独特の文体」も健在でそうした部分については全く期待外れではありませんでした。


でも、ちょっと読んだだけで先が読めてしまうのです。もっと言えばオチが見えてしまうというか。たしかに作者の言うことには一貫性がずっとあるし、思想のぶれもあまりません。そうした意味ではどんな作品を書かれるにしてもしっかりと一貫したポリシーの元に作品を書かれているのでしょう。でも、残念ながらかつてのように何度も読み直したり、人にも積極的に勧めたり、という気持ちにはなりません。そこまでの魅力や輝きをもう感じられなくなってしまったからなのです。


それは作家ご本人が一貫してぶれずに持っているポリシーを貫いている姿勢の中に、その実、そこから更に前進することから逃げているのがどうにも透けて見えてきてしまったからです。そう思って過去作を読み返すとある時点を境にその傾向が時と共に強まっているのが読み取れてしまいました。もう一度、今度は作品を時系列順に読み返すともっと明白にある作品を境に作家の視点の進歩が止まってしまい、自分が前に進む努力をやめた、あるいはその勇気を捨てたあたりから「自分が前進しないこと」をあたかもポリシーのある保守主義のように自分に言い訳しているような変化をし始めていたのです。


正直、これは私にとって結構なショックでした。それなりに熱烈なファンとして読み続けていたのでかえって気が付かなかったのかもしれません。そして同時に私自身、同じことをしてしまっていないか急に、決して比喩でなく背筋が凍る気がして不安になりました。しばらく考えたのち、おそらくこの不安を持てたということはまだ大丈夫だと悟り、ほんの少し安心しました。しかし、人というのは誰しも、当たり前ですが、今この時も休むことなく老いてゆくのです。10代の若い内は努力など全く不要に年と共に成長していきますが、大人になってからは意識しないと「ただ老いてゆく」ことになるのです。


自分が成長をし続けようとか、自分は死ぬまで前進し続けよう、などという格好の良いことを宣言する気はさらさらありません。ただ、一つ所に止まって先に進まないことを、一見格好よく、実は自分をもごまかすような言い訳をするようにはなりたくないと思いました。件の作家の作品はこれからも発表されるたびに読んでいくと思います。色々思うところはあってもやはりその文体などは好きなので。でも、同時に今後は毎回痛々しさを感じながら読むことになるのだと思うと何とも言えない微妙な思いが残ります。それでも、ファンとしては「奇跡」が起こることを祈らざるを得ないのです。

2021年4月12日月曜日

固執することの罠

大体において、何かに固執しすぎることによいことはありません。もちろん、学問の研究などは一つのものにある程度、あるいはそれ以上固執する必要があることもありますが、それでも「しすぎる」と他の視点を失って行き詰ったり、進まなくなってしまったりするものでしょう。とはいえ、今ここで話題にするのはそうした学問上の話ではなく、私たちが生きていく上での話です。


何かに固執するということは粘り強く何かを成し遂げるには必要なものなのは言うまでもありません。しかし、何事にも程度というものがあります。ある程度を越えた固執というのは大体においてろくな結果を生みません。ただ、私がこんなことをここで主張するまでもなく、誰でもそのことは程度の差こそあれ実感されている事でもあると思います。


怖いのは「固執しているつもりなく固執しているもの」です。私が自分自身でも意識して立ち止まり、振り返り、注意しているものがいくつかあります。例えば「ポリシー」とか「信条」などです。これは自分を自分たらしめたり、自分の言動に一貫性を持たせるためにとても大事なものです。しかし、それは硬直化してもいけないものなのです。もっと言えば、


いつまでも同じポリシーや信条等に囚われ続けるということはいつまでも成長しないことと同じ


ともいえるからです。もちろん、自分のポリシーや信条を考えなしに変えてしまうのはよくありません。しかし、固執しすぎると自分が成長するための致命的な足枷になってしまうことがあるのも事実です。


年をとればとるほど、何かの分野でベテランと言われるようになればなるほど、同じポリシーや信条に疑問を持たずにしがみついていれば正直楽なのは当たり前です。これは言うなれば老執とでも呼べばいいのかもしれません。でも、というかだからこそ知らず知らずのうちに、それこそ楽をして成長することをさぼっているという可能性すら含めて、自分が何かに固執しすぎていないか、という自問自答は誰しも続けたいものです。

2021年4月11日日曜日

プライド

 あった方がいいか、ないほうがいいか、判断に迷うものというのは結構あるものです。

例えばプライド。自尊心とも言いますが、確かにないよりはあった方が良いものです。でも、それがどのようなものか、によっては話が変わってきます。世の中言動からしてプライドの高い人というのは意外と多いものです。しかし、どうもそうして人々の話を聞いていると「その人の実力とプライドが見合っていない」場合が多く感じます。

よく自分がこれだけのものを積み重ねてきた、ということを言いたがる人がいます。特に年配なると増えてきます。こういう人はえてして例外なくプライドが高いです。しかし、彼や彼女の話を今までそれこそ数多く聞いてきて「なるほどこれは大した人だ」とか「なるほどこの人のプライドが高いのは当然だ」と思わせてくれた人は残念ながら一人もいません。本当に残念です。むしろ

「この人は今の自分がとんでもなく恥ずかしい存在であることに一生気がつかないのだろうな」

とすら思います。

ある人のプライドが本物か紛い物かを見分ける簡単な方法があります。それは「その人が卑屈になる事があるか?」です。本人のプライドとは無関係の部分でもどこかに卑屈さがある人のプライドというのは間違いなく「分不相応なプライド」です。これは例外なく当てはまります。ただ、時々「分不相応なプライド」に対して自信満々という人もいて、こうした人はこれの例外になることが多いようです。とはいえ、この手の人はこうした判定基準を使わなくてもすぐわかるくらいには分かりやすいみっともなさをさらしているのであまり問題ではないでしょう。話を戻しますが、この判定基準はその相手をある程度知ってからでないとわからないことが多いです。なので、そのほかの共通点を考えてみましょう。

共通点の第一は「自分に自信がない人」と言えます。自信がないから自分の今までの歩みを謙虚に受け止めることができず、自分が大した者であるということを主張するために「積み重ねてきたもの」とか「キャリア」とかという類の言葉を主張するのです。こういう人には「はじめの一歩すら立派なキャリア」に感じてしまうのです。この手の人にそうした真実を指摘してもかえってむきになって自己主張をするものです。面倒くさいですね。逆を言えば、そういう反応をする人はこのタイプの典型、と言えるのです。

次の共通点は「プライドの根拠に他者依存が多い場合」です。例えば資格をいくつ持っているとか、誰それの弟子であるとか、そういう類のものです。たしかに資格をいくつもとるのに努力はしたと思います。しかしそれで天狗になっている人が多いのも事実です。これもみっともない。そもそもある資格の最高ランクのものを取ったとしても「その資格を認定する人」が圧倒的上位にいるということを失念しているのでしょう。

私のよく知る人にそれこそ数えきれないほどの資格を持っている方がいます。しかし、彼は高度成長期、そこからバブルにつながる好景気の時期、そしてあのバブル時代を通して毎週きちんと職安に行ってまじめに就職活動をしているにもかかわらず、今現在を持って未だ生涯一度も正社員になれたことがありません。各々の時代を知っている人ならわかると思いますが、これはとんでもない偉業であり、伝説を超えて神話と言っていいほどの実績です。それでも、彼は資格を増やすことに余念がありません。そして当然、彼のプライドは天より高いです。

さて、最初の「自信がない人」というのはまづ100%全員共通ですが、それよりはパーセンテージが落ちます。と、いうのも資格などをとる努力すらなしに、プライドばかり育てている人もいるからです。

もう一つは比較的色々なジャンルのプロの世界に多いのですが、我流で今までやってきたので客観的な比較対象がなく、その結果自分の実力を過大評価していたり、「自力でここまで上り詰めた」という妙な自信ばかり肥大化させて、我流ゆえに基礎の部分で間違っていることに気が付かず、その上に砂上の楼閣を建てているタイプです。このタイプの人はなまじ今まで努力をしてきているのがわかるだけに気の毒です。でも、やはりみっともないことには変わりありません。ちなみにこうした人はその実、人の目や、噂話のレベルを含む人の評価や、成功していると自分が感じている人と自分を比べてみたりして心の中に、時として表面化させながら卑屈さを同時に育てているものでもあります。

その他にも細かいことを考えれば、色々と共通点は出てきますが、大きなものは大体この程度でしょうし、これだけで大抵の見分けはつきます。それにこれ以上そうした人の研究に時間を使うのは、限りある人生の中で無駄というものでしょう。

結局、これらすべての根底にあるのはこうした人たちには共通して

「謙虚さが致命的に欠けている」

ということです。自分がどれほどの者か。これを決めるのは残念ながら自分ではないのです。そう考えると「謙虚さがない人という烙印を簡単に押せてしまえる人」になってしまうということは、なんともみじめで恥ずかしいものです。そしてたいていの場合、本人はその恥ずかしさに気が付いていないから余計哀れです。

もちろん自尊心というものは大切です。それなくして誇りも責任感も持てませんし、卑屈さや劣等感をいつまでも追い出せません。しかし、そこに謙虚さや客観性がなくなると恥ずかしく、哀れでみっともない、しかし自分では自分の事を「それなりの人物」と思っている、という道化が完成してしまうのです。

少し乱暴ですが、一言でまとめれば「実力の裏付けのないプライドは捨て去れ」ということになるのでしょう。これができて初めて「本当のプライド」手にする事ができるのです。

2021年4月10日土曜日

私にとっての書くことの意味と自意識過剰

私がブログやツイッターなどで何かを書くと

「これは私のことですか?」

とか

「これは私に対する嫌味ですか?」

等というご質問を頂くことが大変よくあります。

私の書くものをよく読んでくださっていることには素直に感謝なのですが、私はいまだかつて

誰かを頭に置きながら文章を書く

ということは、手紙やメール等の私信を書くとき以外ありません。と,いうか、そこまで私は他人に興味を持っていません。そもそも私にとって文章を書くという行為は、

書きたいから書くのではなく、書くという行為が自分にとって必要だから書く

というものなのです。例えるなら、吸った息を吐かないと生命維持に問題が出るのと同じようなものなのです。もちろん、著作権を無視して流用されるのは困りますが、私が自分が書いたものに対してそんなにこだわらないのもそうした事情からなのです。誰しも自分の排泄物に(特殊な趣味でもなければ)こだわったり、必要以上に所有権を主張したりしませんよね?

さて、誰でも自分の生命維持活動に他人を意識は普通しないと思います。だから、私は誰かを頭に置きながら物を書く、ということは私信など以外ではあり得ないのです。

それでも、こういう質問を何度もしてくる人が少なからずいます。そうした人は私にとって不可欠な存在だと思っているのでしょう。しかしながら、私はそのように他人に依存はしません。だからこういう質問をしてくる人は

「自分はかけがえのない素晴らしい存在」
「自分は自分以外の人にとって大切な存在」

という意識が程度の違いは別としてあるのだと思います。
こうした自己評価ができるようなナルシスティックな気持ちをもてるというのは幸せ者だと思いますか、それを外部に表現したとき、それは単なるorかなりイタイ「自意識過剰」に過ぎません。

ただ、一つ思ったのは「これは自分のことを書いたのでは?」思ったということはその人には十分思い当たるフシがある、ということでもあるのでしょう。そしてそれを「嫌味」などとらえるというのは「そういうことをやらかしてしまっているという自覚」があるということでもあります。

そう考えるとそういう反応を頂くのもある意味面白いですね。

入院

 色々と難しい問題が出てきたので、一度治療法を全部見直そう、ということで薬の調製を主な目的に入院して、あと数日は検査が続きます。

途中違う病院の検査も必要になるので、形上退院してそのまま別の病院へ、等と慌ただしいのですが、お蔭様で大分めどがついてきました。

入院しているとネットにもかなり制限があり、結構手持ち無沙汰になります。そこで、日頃は各時間がない色々な話を少しづつ書きためています。

これから、少しづつそうしたものでこのブログも更新してみようと思います。

そして、きっと……

ネタが尽きたらまた更新が止まるのでしょう……(笑い