2021年5月25日火曜日

Witchcraftと日本の伝統的宗教

 Witchcraftが日本の神道的な考え方と近いものを持っている、ということをいう人が少なからずいます。たしかにWitchcraftも神道も多神教であり、自然の中に神性を認める、という意味では「この2つは似ている」と思ってしまっても不思議ではないかもしれませんし、最初そう思うのも理解できます。

しかし、ある程度実践していったり、学んでいったりした上で、なおかつ同じ感覚を持っている人は結局「どちらも分かっていない」というパターンにはまってしまっていると思います。もちろん、元々理解するセンスがない人もいると思いますが、同時に「学ぶ方法を間違ってしまっている」という人も多いのだと感じています。実際ネット上には

「もっともらしい間違った知識」

「いかにも実績がありそうな嘘」

「いかにもしっかりした裏付けがありそうないい加減な話」

などが沢山あります。そういうものに引っかかってしまったら、いくら学んでもどんどんおかしな方向に行く以外ありません。

私がよく使う例ですが、東京から京都に向かって行こうとして「北へ北へ」と向かっていけば努力すればするほど目的からははずれていきます。国道ならば標識があるので「仙台〇〇㎞」などが出てくれば「あ、間違った」と気がつくチャンスもありますが、こうしたものには間違いを気づかせてくれるものがないのではまったらはまったまま、になってしまうのです。

閑話休題

誤解している人や間違って学んでいる人は別として「Witchcraftと日本の伝統宗教などは似ている」と思っている人は、本来のWitchcraftにはついていけないか、あるいはそもそも向いていない人だと思います。

元々私は若い頃、仏教や神道の修行をしていて、結局それが自分の中でどこか納得できず、結局ウイッチクラフトに、という流れだったので最初の頃は自分の中で今までやってきたことと接続できる部分があるかもしれない、と思いつつ、結局はそれが誤解であることにある意味安堵した、という経験があるので「似ている」とはどうにも思えません。

あるベテランの魔女が「英語を話すための感覚的なものと、ウイッチクラフトの適性って似ている気がする」ということを行っていました。これはまさに至言だと私は感じました。

そもそも英語と日本語には大きな共通点があります。

第一に英語はフランス語の、日本語は中国語という他国語の影響を形は違えど大きく受けています。さらに話し相手を信頼しゆだねる部分が大きい、省略形式が多い島国的な言語(これをIsland form:島国形式)という共通点もあります。しかし、それでいて、極端な省略形式を信頼の証とする日本語の形式と大陸言語の相手を信頼しきらないという特徴を併せ持っている英語とは根本的なところでまるで違います。その感じに近いと私はそれを聞いて思いました。

この例を元に考えると、日本語と英語は日本と英国が々島国だから似ている、と決めつけるのと同じような誤解を「Witchcraftと日本の伝統的宗教は似ている」という発想には含んでいるといえるのです。

2021年5月22日土曜日

伝統というもの(1) 伝統はどう在るべきか

何回かに分けて、伝統というものを私がどう考えているかを書いてみたいと思います。

伝統を受け継ぐというのは、簡単にいえば

「先人達が今まで積み重ねてきたものを受け取る」

ということになります。そこまでは誰もが問題なく納得できるところなのですが、問題はその後どうするか、だと私は思うのです。

私の受け継いだ魔女の伝統には

「伝統を削ってはいけない。新しいものを付け足していくもの」

という大原則があります。おそらく明文化はしていなくても同じような原則を持っている流派は多いのではないかと思います。これは

「魔女狩りの時代に先代から受け継いだものを正確に次につなぐ為に恣意的な取捨選択をはさまないという為」

に決められていることだと習いました。そして何かの事情で新しいものを付け足した場合でも元々がどうだったかを残しておくことで何代か先の後進でも元に戻って検討できるようにしておくことが大切なのだとも習いました。

これは非常に大切な考え方で、伝統というものは絶えずその時代に合わせて更新されるべきもので、古臭いものを金科玉条として守っている、というものであってはいけないのです。かといって、新しいものを考えた人の考えが常に正しいという保証もないのでいつでも元に戻って考えられるようにしておく事も大切なのです。それになにより、キリスト教に魔女狩りなどで殲滅しようとされた伝統を命懸けで守った先達の努力を誰かが削ってしまうことは同じ流派を受け継ぐものとしては許されない事なのです。

たとえば、カード占いの意味に「手紙、電報」いうのがあったとします。これはやがて「手紙、電話(時に電報)」と変化し、更に今だったら「メール、チャット、電話」とする方が読みやすいでしょう。このように伝統的なものも時代に合わせて変化させていく必要があるからです。でも、このように「変化させて終わってしまってはいけません。

まづ、元の意味も残しておかないとまた今の私たちが想像もつかない伝達手段が出てきたときに「メール、チャット」などを加えたときと同じように、という前例を残しておくべきだからです。

また、今の時代だからと言って手紙がなくなったわけでも、電報がなくなったわけでもありません。事実郵便局は毎日大量の手紙を扱っているわけですし、つい最近、私も電報を受け取る機会がありました。やはりこれだってなくなっていないのです。だから、本当は、

「手紙、電報」

→「手紙、電報、メール、チャット、電話」

というように「意味を足していく」のが正しい在り方だと言えるのです。

伝統というのはこれに似たものがあります。わかりやすい例でいえば、伝統的なお香のレシピの中には現代では手に入らない材料が指定されていることも多々あります。こうしたものは、まだ手に入る(しかし、手に入りにくくなった)時代の先人が色々と比較検討をして、代替品となる材料の指定を残してくれていることがあります。そして、現代では元々の材料が原料となる動植物の絶滅などで入手不可能になってしまいその代替品の方だけが現実的なものとして残っています。しかし、だからといって「元々のレシピに上書き」してはいけないのです。今現在使う材料が「元々は何の代替品だったか」ということはしっかりと残しておかなければいけないのです。なぜなら、より時代が進んだ時に、より元の材料に近いものが見つかるかもしれません。また、より効果的な方法が見つかることもありますし、より簡単な方法が作られることもあります。こうした場合でも元になるものはしっかり残した上で、そのどれをどう変化させたかを明示しておくことが大切です。元のレシピが残っていなかったらそうした研究を後の時代にすることができなくなってしまいます。また、元に近づけば近づくほどその材料に求められている考え方の本質が残っているのは当たり前なので、その材料に込められた思想や知識を入手可能性など本質と関係のない理由で「歴史から削って」はいけないのです。

伝統とはこうした更新の仕方よって元々の意味をしっかり後世に伝えつつ新しい伝統が継ぎ足されていくものでなければいけません。これは自然科学でも科学史(数学史、物理学史、化学史等)という形で同じ方法が取られているので、理解しやすい考えだと思います。

このように伝統というものは古いものを大切にしつつ、新しいものを加えていく、しかしそのルーツは大切に残しておく、という形で常に更新されるものでなければならないのです。そうでなければ、伝統というのは、ただの骨董品や古くさい博物館の展示物の様なものにすぎなくなってしまい、使い物にならなくなってしまうからです。

2021年5月21日金曜日

生きる意味、生きる目的

 「生きる目的というのは実は誰にも、いつどのような時でもあります」

このように断言する人がいると

「私には生きる目的がない」

と反論する人が出てくるでしょう。これは当然です。もちろん、しっかりとした「生きる意味」や「生きる目的」を持っている人もいます。でも、持っていない人もいるのは当たり前のことだからです。私自身、20代の頃は「生きる目的」などは全くなく、それどころか「死に場所を探すためだけ」に生きていましたから。極論で言えばこれも「生きる目的」といえなくはないですが、それは「自殺の方法を探している」等と同様に本末転倒でしょう。今回は少し私自身の話をメインにお話したいと思います。

当時の私は、今になってよく考えれば「死にたかった」わけではないのですが「生きていたくもなかった」という気持ちが自分の中で支配的でした。ただ「自殺はどうにも後々損だ」という実感を持っていたのでそれは考えませんでした。なので「死ねる場所としての死に場所」を探していたのです。

もっとも私の場合、少し他の人と違っていたのは「死への恐怖」は全くなかった、ということでしょう。

よく「人間はわからないものを恐れる」と言われますが、これは一面の真理で、私は私なりに「死を知っていた」からそもそも怖れがなかったのです。私がどう「死を知っていたか」という理由は3つありました。

まづ1つ目は「生まれつき霊体が見えていた」ということです。世の中には「透けて見える人とそうでない人がいる。透けている人はぶつかっても大丈夫だけどそうでない人にぶつかると痛い」という認識を持っていたのです。なので5歳くらいの時に「他の人には透けている人は見えていなかった」ということが分かった時はとんでもない、それこそ人生最大のカルチャーショックを受けました。そのくらい霊体というもの事態が「当たり前の存在」だったのです。

次に「断片的ながら前世をしっかり憶えていた」ということがありました。後々になってそれは前世ではなくてもう少し前の過去世だったと分かったのですが、ここで私にとって大事なのは「人生は連続していて一回きりではない」ということを最初から分かっていた、ということなのです。そうなると「死というものは区切りの一つでしかない」という事になります。

そして最後に、これが一番大きいのですが、生後8カ月で小児結核、2歳で小児ネフローゼと18歳までの半分以上を入院していると昨日まで廊下で楽しそうに遊んでいた子供が翌朝死亡退院という場面をそれこそ数えきれないほど見てきました。そして、当時の医療のレベルでは小児ネフローゼの致死率は非常に高く、同じ病気の子がしょっちゅう死亡退院していくのを見ていました。それは同時に自分がいつ死亡退院してもおかしくない、というリアルが毎日突きつけられているという状況ということです。これで死を恐れるわけがありません。私にとって「死とは日常の一つ」であり、恐怖する必要があるものでは完全に無くなっていました。そんな状態だったので私にとって「死を恐れる理由」が全くなかったのです。

そうした幼少年期を過ごすと「死を恐れる」という発想が完全に無くなります。そしてそれは同時に「生きていく意味」も奪います。これは私の個人的な感覚なのですが「生きる意味」というのは「死の対極」にあるものなのだと思います。そして「死」に意味がなくなると「生きる事の意味」自体が薄っぺらく、軽いものになってしまうのと感じるのです。もちろん、これは一面的な見方だと思いますし、そうあって欲しいとも思うのですが、同時にこれは一面の真理でもあると思います。

結局私は「いつ死んでもおかしくない」という周囲の共通認識の下で成長したので、当然両親含め周りの大人は「私の将来」など考えてもいませんでした。当たり前といえば当たり前です。明日生きていることがありがたい、という子供の将来を思い描ける親や大人が世の中にどれだけいるでしょう。一応子供心に何回か抱いた「将来なりたいもの」もすべて「この体では無理」と簡単に終わってしまいましたし、そもそも「毎日コンスタントに仕事をする事自体無理」と決めつけられていたので私自身も「とりあえず今日生き抜くことに集中しよう」となったのでした。そんな状況で「生きる目的」などできるはずもありませんでしたし。

ところが18歳になった時、いきなり全部完治しまして途方に暮れました(笑い

ただ、それまでに高校受験を中心(このことはい連れ機会があれば。私を大のアンチキリスト教にした原因です)にすっかり世の中を信じなくなっていた私はそのまま社会にあまり真っ正面から向き合わず(せいぜい学生運動くらい)、いわゆる「良い学校に行って良い会社に入って……」という一般的に普通といわれる路線とはまったく無縁になってしまっていました。そうなると本当に「今やりたいことをする」くらいしか思いつくものもなく、先を見据えた「生きる意味」というのは全くなくなり、「生きる目的」も当然なくなっていました。

そもそも世間でよくいう「生きる意味」や「生きる目的」のようなものは結局先を見据えて、というのが暗黙の了解で頭についている気がします。そういう意味では当時の私にはまるでそうしたものとは縁がありませんでした。

ただ、どうしても「自分が痛い」「自分が苦しい」は嫌なのでそういう死に方は絶対嫌だな、というのは絶対的なものとしてありました。

そんな感じだったので私が救いではないけれど「何か」を求めて宗教遍歴を重ねたのはある意味当然だったと思います。そうした中で運命的に巡り合ったWitchcraftは自分にとって一番しっくりと来る宗教だったのは間違いありません。ただ、だからといってそれが私に「生きる意味」等をくれたわけでもありませんでした。ただ「死に場所を探すという生き方から縁が切れた」程度の話であり、そういう意味ではそれ以上でもそれ以下でもなかったのです。

やがて、年をとると共に、そしてまた病気が立て続くようになった時、思いもしなかった変化が自分の中で起きました。それは「自分が受け継いだ伝統を自分の代で絶やしてはいけない」という使命感、といえば格好いいのですが、その実

「そんな状態であの世に逝ったら師匠に何を言われるか」

という方が素直な言い方でしょう。

そして、更に年をとる毎に「後進を育てなければ死ねないな……」とか「次の世代の人たちに自分が欲しかったものを残しておかないとな……」等の「今死ねない理由」ができてくるようになりました。

正直私には今も「人生の目的」とか「生きる目的」というのはたぶんありません。このままだとたぶん一生持たないでしょう。私にはただ「死ねない理由」の裏返しの「生きていく理由」があるだけなのだと思います。でも、私にとってはそれで十分なのだとも最近は感じています。結局どれだけ生きるか、という事よりも、どう生きるかの方が重要なのだと感じるのです。

私にとってこの辺りの感じ方というのは、私の考え方に大きな影響を与えています。もちろん全て、ではありませんし、全てに、でもありませんが。どうにもまとまりがよくありませんが、ちょっと振り返りながら書いてみました。

2021年5月20日木曜日

伝統の中の知恵

 第2次湾岸戦争の折り、イスラームの法学者と共に祈った時、話の流れから「伝統がいかに大切か」という話をしみじみとしたことがありました。また友人の仏教僧と伝統をどう活かしていくべきか、などという話で盛り上がることが今も時々あります。

伝統、と一言で言ってもその言葉の持つ意味は様々です。同時に伝統の持つ重みはどの視点で見るかで千変万化ともいえます。

宗教における伝統は色々な視点で診る事ができますが、その大事な一つに「人を育てる知恵の蓄積」という視点があります。宗教の伝統というのは、その宗教に関わっていく人たちが、その教えの中で人間的に成長する為に先人たちが工夫し、見つけ、あるいは創りあげていった経験に基づく知恵の蓄積といえます。今回はこの視点での伝統についての話をしたいと思います。

伝統のある宗教の伝統には、宗教を問わず、程度の差や表現の差こそあれ人格者と一般的に呼ばれるような人を育てる知恵があります。そしてそれはどの宗教でも、その宗教の信仰者には等しく与えられるわけです。その上で、それをしっかりと自分のものにした人が人格者と認められ集団の中のリーダー(その宗教内とは限りません)となる、というシステマティックな知恵の体系があるものです。

このリーダーを育てる知恵というのは文字通りの宗教内でのリーダーという意味もありますが、まっとうな宗教が社会に奉仕することを目的の一つとしていることを考えれば、同時に社会のリーダーたる人を育てるという意味もあります。そもそも本来宗教が考えるリーダー像は、自分が何も言わなくても、周りから尊敬され、この人のようになりたい、それにに続きたい、と思わせるような人格者であることによるものです。その意味では、宗教の伝統がもつリーダーを育てる知恵が等しく信仰者全員に与えられることは当然ともいえるでしょう。

なぜそうしたリーダー像を宗教が求めるかといえば、それはある意味当然のことで「こんな立派な人に自分もなりたい。この人のようになるにはどうしたらいいか?ああ、そうだ。この人の信仰している宗教から自分も学べば良いのだ」というように多くの人に感じさせ、それによってその宗教を結果的に布教する人を育てるためにそうしたリーダー像を求めるのです。

そこにはいわゆる宗教の勧誘のような物は一切介在しません。「そこで学びたい」「あの人と同じところで学びたい」と人に思わせるような立派な人を育てるだけで良い、という至極まっとうな考え方です。そこにはとてもシンプルに「存在自体が人生の指導者」とでもいうべき人格養成が求められているだけなのです。そもそも「学ぶ」ということが「真似ぶ」という所からきていることを考えれば納得のいくことだと思います。

さて指導者という言い方をしましたが、これを説明するために一般的な教師と宗教者との違いを考えます。両者とも同じ「人に何かを教える」ということを行うわけですが、教える内容の問題を越えて本質的に大きな違いがあります。

例えば、学問などの場合は、教師はあくまでも学生よりも上です。だから「上からものを教える」という形でよいわけですし、そうした姿勢を当然求められます。学生の目線に立って、というのが大切だということもありますが、それは生活指導などの話であって、本来の仕事における前提は絶対的に教師の方が上である、という保証が求められるのです。その上で、学生の目線に合わせるのです。

ところが宗教者の場合は常に対等の人間として語ることが求められます。圧倒的な知識量や経験があればあるほど、対等な人間として相手に向かうことが求められるのです。

この違いは、いいかえれば、教師は上に在る上で学生の目線に降りていくことが求められるのに対して、宗教者は「対等の人間として目の前に立つ」という前提の上で、例えて言えば「こんなにも上に立てるだけの人なのに自分と同じ位置にいてくれる」という感動を与えることを求められるのです。人より上に立てるものを身に着ければつけるほど上に立たないようにする事が求められる、という言い方もできるかもしれません。

もちろん、宗教にも知識の部分はあります。当然司祭が後進の司祭を指導する場合は教師的になる必要があるでしょう。また信徒を正しく導く義務もありますからそうした時は教師と々姿勢が求められるのは当然です。しかし、それが本質ではないのです。その辺の「身のこなし方の知恵の集積」がある意味宗教の伝統の中の大きな意味としてあるともいえま。

私は常々、宗教者には、やさしさと謙虚さ、そして決して卑屈にならない強さと自分に対しての厳しさ、それだけがあれば十分だと思っています。その上で教義とか儀式とかその辺は自分の信じる神性に従ってやればよいのです。要はどんな宗教でも宗教者は自分をこのように律し、戒めておけばよいのです。宗教は所詮「人を活かす道」のひとつに過ぎないのですから。

そうした上で、宗教は「人を育てるもの」である必要があり、その「人を育てるための知恵の体系」が蓄積されたたものが宗教の伝統の大きな意味の一つなのです。

2021年5月19日水曜日

精神疾患とWitchcraft

 Oriental Wiccaの通信講座の受講条件の中にも

・精神疾患がある方は悪化させてしまうなどの危険な場合がありますので、

   ①診断名
   ②服用中の薬と量
   ③薬を飲み始めて何年くらいか
  を書いた上で必づ事前にメールでお問い合わせください。

​というものがあります。

これはかなり以前から議論されている話題で、昔からある本にもよく「精神疾患全般にいえることだが、こうした病気にかかってる人は魔術とか魔女とかに関わっちゃ駄目」というようなことが書かれていますが実際どうなのだろう?という疑問は常に存在してきました。

ここでいう「精神疾患全般」というのはちょっと極端すぎると思います。そもそも「all or nothing」で考えるのが間違いなのだと思っています。だからOriental Wiccaの通信講座の受講条件でも「お問い合わせください」というスタンスをとっています。

しかし現実問題というか、この数十年の経験上言えることは「精神疾患を持っている人はWitchcraftに惹かれやすい」という傾向はかなり強くあります。それでも「基本的には、精神疾患の人はWitchcraftの道にかかわらないほうが安全」だということが言えるのも事実です。なぜならWitchcraftの実践していくと(善し悪しはまったく別として)かなりの精神的なストレスを感じる場合もありますし、精神的な変化(進歩など)を経験することがあります。こうした時に精神疾患を持っていると症状を悪化させてしまうことが多いのです。もちろん、問題がない場合もあります。

だからといって「症状やタイプによっては大丈夫です」等と書くと「ではどういうのはOKでどういうのはだめなのですか?」という質問に当然さらされるわけです。当たり前ですね。

でも、これに一つ一つ対応するのはかなり困難ですし、ましてや一般的な基準を明示することなど不可能です。だから、結局面倒なので誰もこうは書かなくなるわけです。そうなると、元々の「精神疾患全般、かかってる人はWitchcraftに関わっちゃ駄目という言葉だけ」が残ってしまいます。

ところで実際には「精神疾患があったけれど、実践しているうちによくなった」という人もごくごく稀にいます。そうした「幸運な人」が存在するのは事実です。そして、そうした人が「私が証拠です!」という感じで現れると、それにすがりたい人が少なからず出てきます。

しかし、繰り返しになりますがそれはものすごく稀な「レアケース」であり、私自身今までに「数人」しか見たことがありません。

逆に一気に精神疾患を悪化(時には壊滅的に悪化)させてしまった人は多くみましたし、ほとんどだったといっても過言ではありません。そしてなによりも「本人はよくなっている気持で絶望的に悪化させている」というケースが多いのが恐ろしい所です。

結局、結論というか、舞台裏をざっくばらんに言ってしまえば、よく本にある「精神疾患全般にいえることだが、こうした病気にかかってる人はWitchcraftに関わっちゃ駄目」という言い方自体が書き手の手抜きであり、しかし、厳密な書き方をした場合の後の面倒を考えると誰も書きたがらない、という現実があり、それが混乱を招いている、といえるでしょう。

ようするに本来の正しい中間の形、つまり安全という意味、で対処できるだけの知識を持っている人が賛成派にも反対派にも絶無に近いのが問題なのだと思います。だったら「ダメ」という方が安全だし、人を不幸にする可能性の除去という意味で正しいと思います。

たしかに前述のように「でも実際私が」という人もいるわけですが、そういう人は「あくまでも自分がそうだった」というだけだということを謙虚に理解して、自分が最低でも精神医学のきちんとした正しい(最低でも医師免許所持レベル)知識を持った上でしか人には勧めてはいけない、ということを肝に銘じるべきだと思います。

結論としてまとめると、

「実践しても安全なケースでも、それを専門知識や経験(もちろん自分の個人的経験ではありません)、必要に応じて専門家のアドバイスが得られる状態という環境を持った上で監督指導してくれる人の下で以外は危険である」

ということでしょうか。Oriental Wiccaでもこうした問題が起きた時、精神科医に相談できる体制をとっています。

ちなみに私の立場を付け足しておくと、「一般的な質問」で聞かれた時はこうした事情から「やめておいた方が良い」と答えることにしています。

しかし、一般論でなく「自分の問題」として聞かれた時は、きちんと病院で治療をした(しているでも可)上で、私も相手の病状や治療状況がわかった上でならばいくらでも相談に乗らせて頂くようにしていますし、実際そういう方も何人もいらっしゃいました。また必要なら精神科医などの専門家に相談しています。また実際私自身鬱病の経験者でもあります。

このことは魔女・魔女志願者の全ての方がたまには他人事ではなく「自分はどうなのか?」という「自分の問題として」振り返ってみる時間を取るべきです。そういう時間を取ることも「大事な魔女の時間」なのですから。

ちなみに蛇足ですが、もう一つこの問題にはより本質的な大きな問題があるのも事実です。それはWitchcraftが神秘宗教であることから来る問題なのですが、この点については一般向きの話題ではないのでここでは省略します。

2021年5月18日火曜日

『Witchcraftの実用的用語解説集』 (原題『言葉の定義』)

 色々と更新作業をしたり、ものを書いたりしているといつも思うのが「言葉の定義」の難しさです。特にWitchcraftの用語等は私が若かったころと今とでは意味が変化しているものがいくつもあります。

かつては「伝統的魔女」といえばキリスト教以前の宗教に端を持つ(とされる)古い伝統を持つ、そして魔女狩りを経験している魔女の事をさしました。ところが、21世紀に入ってしばらくしてからは「ガードナー以前の魔女」という意味が段々と一般的になり、今では元々の「伝統的魔女」のことを「ペイガニズムの魔女」とか「キリスト教以前の古い魔女」等と別の言葉で表さないと通じなくなってしまったという事などはその良い一例でしょう。

かつて魔女狩りを乗り越え、今の私たちに伝統を残してくれた先達に申し訳なさを感じるのと同時に、それこそ「悪貨は良貨を駆逐する」と言わんばかりに自分たちの存在を示す言葉を奪われた気がしたりもして、強い反発心をかつては持っていましたが、いちいち説明したり、反論したりすることも、また議論の通じない相手と議論をする事にもうんざりしてしまい、今はそういうことにエネルギーを使う気も起きなくなってしまいました。少なくても言葉は自分以外とコミュニケーションをとるための道具と割り切っていくしかないのは時代の常なのでしょう。

閑話休題。

ともあれ、このように伝統的な言葉ですら、時代と共に意味が変化してきます。また、かつては普通に通じた言葉も多くの人にはまるで古語のような扱いをされて通じなくなってくることもあります。しかし、それではどうしても伝えたいことが伝えられない事態にもなります。だからといって、話が通じるように国語の講義をいちいちする訳にもいきません(私は国語の教壇にも長く上がっていたのでできなくはありませんが……)。そうした時、必要になってくるのが「この本では『〇〇』という言葉を『△△』という意味で使います」というような言葉の再定義が必要になってきます。一般的な言葉の意味を活かしつつも、それでは表現しきれない部分や明確にならないところをどう表現するか、がいつも悩みます。

また「言葉の再定義」といえば、既存の言葉に新しい意味を持たせる再定義というものもあります。

このタイプの再定義をしたものでは、例えば「業」と「カルマ」があります。

これは本来は「犬」と「ドッグ」のような関係、つまりまったく同じものなのですが、これをOriental Wiccaでは、

業:今生の因果

カルマ:過去生~今生~来世といったスパンでの因果

と、言うように再定義し、使い分けています。これはあくまでも便利さの追求という事から来るのであまり褒められたものではないと思いますが、それでもこうした再定義によって外来語を生み出してきた日本語ならではのありがたさと思うことにしています。

もっとも、こうした外来語成立というのは明治時代くらいからは特に増えてきているのである意味「日本語のお家芸」とも言えます。


ここでちょっと質問です。自分の答えを考えてから続きを読んでください。

問題:

「科学」と「学問」の違いを述べよ。



いかがでしょうか?

どちらももともとは中国語から入ってきた「学」でしたが、明治時代に日本に英語が入ってきた時に英語の「science」を訳そうとした当時の日本人は困ってしまったのです。なぜなら、その当時は阿片戦争で英国が清(今の中国)に勝った直後でした。そうした時代背景から、

戦勝国の言葉「science」を敗戦国の「学」と訳したらどんな言いがかりをつけられるかわからない、と考えたのです。そこでこの「science」という言葉をよく調べると「natural science(自然科学)」「social science(社会科学)」のように「〇〇science」という使い方をしているのに気がついたのです。そして「この〇〇は分類を表しているから、この部分を『科』と表してしまえば良いのでは!」と閃いた人がいたのでしょう。結局そうした経緯で

「science」の訳語 : 科学

「学」の訳語      : 学問

となったのです。ですから答えは「同じもの」です。そして元々の「学」という単語は忘れ去られていったのでした。今の日本人で「科学」「学問」という言葉は普通に使っても、本来の意味で「学」という言葉を使う人はいないと思います。使われるとしたら意味を広げた上で「学がある」などの用法が残っているくらいです。

これはほんの一例ですが、こうした言葉は実は沢山あります。だから「日本語のお家芸」といえるのです。とはいえ、こうした言葉の再定義は意外と難しいのですが、今後も含めての課題となっています。

先日『Witchcraftの用語集』を書こうと思い、実際に書き始めてみたのですが、書き始めると原題のWitchcraftの用語はキリスト教の用語と混ざってしまっていたり、一般的な英和辞典に出ている意味とは違った意味が多かったり、果ては日本独自で意味が発展してしまったものがあったりで、どうしても「再定義と解説」が必要になってしまいます。結局そうした部分を丁寧に埋めて書いていこうとすると、もうこれは『用語集』ではなくて『Witchcraftの実用的用語解説集』になってしまいそうです。でも、そういう用語集はきっと今後必要とする人が出てくると思いますし、Witchcraftが日本に輸入された初めの頃からを、全てがリアルタイムでないにしても(リアルタイムで当事者だった人たちとの直接の交流などの中で)、大体を体感している私のような世代がまとめていくのは一つの義務なのかな、とも思っています。そしてその用語集にまた新しい意味を加えたり、書き直してくれる人がその後の世に出てきてくれれば良いな、と感じています。

魔女の呪文や祈りは日本語でよいのか? (原題:日本人と外国語)

 私は高校の頃、国語は得意でしたが英語はどうにも苦手でした。中学生の頃は良かったのですが、中学3年生の時に半年以上入院してからまったくわからなくなってしまい、わからなくなったらまったく面白く無くなり「なんで日本に住んでいる日本人が英語なんかやらなければいけないのだ?どうせ一生そんなに使うことはないのに」(将来インターネットなどが現れるなど予想もしていなかった……)とうそぶきながら、完全に捨て去りました。

そんなこんなで私の英語力は年々ひどくなり、高校2年の誕生日に国語の先生に英単語集をプレゼントされたり、高校3年担任だった英語の先生には放課後呼び出され、涙ぐみながら

「正直に言ってくれ… お前、俺のこと… 嫌いか?他の科目はそれなりなのに、英語だけここまでひどいというのは……俺のせいか?」

と言わせてしまうほど追い詰めてしまったり、挙げ句には同じ試験問題で7回卒業試験を受けどうしても30点が越えられなかったので、採点後に先生が無言で消しゴムを手にとり私の名前を消し、

「名前をローマ字で書け、それで30点超えたことにしてやる」

と、言われて卒業させてもらいました。

そのくらい英語はダメでした。

その数年後、ある大学で英語を教えている先生に出会うきっかけがありました。ちょっとしたご縁で、その先生に教えて頂いた(しごきまくられた)おかげでとりあえず、人並みの語学力にしていただきました。ずいぶん後でその先生が英語学のある分野では「謙遜しても世界トップ3」だということがわかり心底びっくりしましたが、人生で出会った先生の中で一番厳しかったと同時に、一番学問の面白さを教えてくれた先生でもありました。その後、その先生の紹介で国文学の先生のところにもしばらくご厄介になったりもしていました。

そのような感じで結果的に比較言語の世界に数年身をおいていましたが、そこで学んだことはいくつかありました。

一つ目は、自国の文化や言語を大切にできない人は外国語をいくら勉強してもまるでダメ、という真理です。自国の言語などを大切にできない人はいくら外国語ができても所詮は「本人が外国語が得意と思っているだけ」で結局ものにならないということです。人間は母国語でものを考えるようにできています。なので、母国語を大切にし、その背景にある文化を大切にしなければ考えるベースがない状態で外国語を弄んだところで、書く内容も、話す内容も薄っぺらく、読解力にしても文字面を追っているにすぎないのです。これでは精々が高性能な翻訳ソフト人間、という感じでしょう。

二つ目は、自国の文化や言語を軽んじるか、あるいは外国のそれを自国のものよりも価値があると思っている人も、いくら外国語ができてもダメだということです。簡単な例を挙げると語学を習うなら全員外国人がよいと思っていたり、外国に行くことがなにより大切(もちろん、留学はどんな場合でも得る物があることは十分認めていますが)だと思っているような人は自国のことを学ぶより、外国語や外国文化を学ぶことの方に、より価値があると思っている傾向があります。こうした人もやはり性税が翻訳ソフト人間です。言語が人と人をつなぐものだということが頭から抜けているのです。相手の言葉を理解し、相手に自分のことを理解させるのに言語だけ立派でもダメなのです。

ずいぶん前の話になりますが日本の外交官が柿本人麻呂について尋ねられて、まったく答えられずに国際的な恥を書いたということがありました。外国人、特に知識階層の外国人は自国の文化を大事にしています。そして当然のこととして、外国人である私たちも同じように自国の文化を大事にう誇りを持っていると信じています。だから当たり前のこととして、日本人なら誰でも源氏物語や柿本人麻呂、浮世絵などについては深い理解をしていると信じています。

今の若い人(基準としては生まれたときから携帯電話があった世代以降の人)たちはCDが当たり前にある世の中に生まれ育っているのでいくらでも音声教材が手に入ります。また学校にもネイティブの先生に触れる機会が全国に普及しています。だから昔の日本人(私もそうです)に比べてけた違いに平均的な英語力は上がっています。しかし、それに反比例するように源氏物語や柿本人麻呂について説明できる人は減っています。

日本のような島国ではなく、地続きで他国とつながっているような国の人になればなるほど自国の文化を大切にしています。もちろん、島国だからというのは言い訳にもなりません。例えば英国人などもこの例外ではないからです。逆に自国の文化を大切にしない人は外国では軽蔑対象にしかならないのです。ですから、どんなに外国語を勉強しても、自国の言語や文化を大切にしない人はその外国語の知識や技術は学国に恥をさらしにいく準備をしているに過ぎません。

三つ目は今までお話したことのベースでもありますが、自国の言語と文化を大切にしていなければ外国の言語と母国語の対応が単語集形式にしか頭の中で対応できず、言語の持つ奥深さを理解することが決して叶わず、所詮は薄っぺらな言語認識になってしまうのです。言語認識が薄っぺらいものだと、その人の語る言葉には人を動かす力が当然ありません。

これらについてはきちんと述べようとすればそれだけで一つ一つがかなりの分量になってしまいますので今回は軽く目次的な触れ方にしますが、これについても魔女として日本で生きていくには色々と重要な部分があります。

例えば、スペルなどの時の祈りの言葉や呪文を「自分の言葉として唱える場合」にはやはり日本語で唱える方が効果的である、という事の理由と根拠はこうしたところにあるのです。

こうした一見、魔女とは無縁のことが、日本で魔女を実践していく上では本質的に大切なことにつながっている、ということは色々とあります。機会をみてこうしたことも少しづつ書き足していこうと思っています。