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2021年5月18日火曜日

『Witchcraftの実用的用語解説集』 (原題『言葉の定義』)

 色々と更新作業をしたり、ものを書いたりしているといつも思うのが「言葉の定義」の難しさです。特にWitchcraftの用語等は私が若かったころと今とでは意味が変化しているものがいくつもあります。

かつては「伝統的魔女」といえばキリスト教以前の宗教に端を持つ(とされる)古い伝統を持つ、そして魔女狩りを経験している魔女の事をさしました。ところが、21世紀に入ってしばらくしてからは「ガードナー以前の魔女」という意味が段々と一般的になり、今では元々の「伝統的魔女」のことを「ペイガニズムの魔女」とか「キリスト教以前の古い魔女」等と別の言葉で表さないと通じなくなってしまったという事などはその良い一例でしょう。

かつて魔女狩りを乗り越え、今の私たちに伝統を残してくれた先達に申し訳なさを感じるのと同時に、それこそ「悪貨は良貨を駆逐する」と言わんばかりに自分たちの存在を示す言葉を奪われた気がしたりもして、強い反発心をかつては持っていましたが、いちいち説明したり、反論したりすることも、また議論の通じない相手と議論をする事にもうんざりしてしまい、今はそういうことにエネルギーを使う気も起きなくなってしまいました。少なくても言葉は自分以外とコミュニケーションをとるための道具と割り切っていくしかないのは時代の常なのでしょう。

閑話休題。

ともあれ、このように伝統的な言葉ですら、時代と共に意味が変化してきます。また、かつては普通に通じた言葉も多くの人にはまるで古語のような扱いをされて通じなくなってくることもあります。しかし、それではどうしても伝えたいことが伝えられない事態にもなります。だからといって、話が通じるように国語の講義をいちいちする訳にもいきません(私は国語の教壇にも長く上がっていたのでできなくはありませんが……)。そうした時、必要になってくるのが「この本では『〇〇』という言葉を『△△』という意味で使います」というような言葉の再定義が必要になってきます。一般的な言葉の意味を活かしつつも、それでは表現しきれない部分や明確にならないところをどう表現するか、がいつも悩みます。

また「言葉の再定義」といえば、既存の言葉に新しい意味を持たせる再定義というものもあります。

このタイプの再定義をしたものでは、例えば「業」と「カルマ」があります。

これは本来は「犬」と「ドッグ」のような関係、つまりまったく同じものなのですが、これをOriental Wiccaでは、

業:今生の因果

カルマ:過去生~今生~来世といったスパンでの因果

と、言うように再定義し、使い分けています。これはあくまでも便利さの追求という事から来るのであまり褒められたものではないと思いますが、それでもこうした再定義によって外来語を生み出してきた日本語ならではのありがたさと思うことにしています。

もっとも、こうした外来語成立というのは明治時代くらいからは特に増えてきているのである意味「日本語のお家芸」とも言えます。


ここでちょっと質問です。自分の答えを考えてから続きを読んでください。

問題:

「科学」と「学問」の違いを述べよ。



いかがでしょうか?

どちらももともとは中国語から入ってきた「学」でしたが、明治時代に日本に英語が入ってきた時に英語の「science」を訳そうとした当時の日本人は困ってしまったのです。なぜなら、その当時は阿片戦争で英国が清(今の中国)に勝った直後でした。そうした時代背景から、

戦勝国の言葉「science」を敗戦国の「学」と訳したらどんな言いがかりをつけられるかわからない、と考えたのです。そこでこの「science」という言葉をよく調べると「natural science(自然科学)」「social science(社会科学)」のように「〇〇science」という使い方をしているのに気がついたのです。そして「この〇〇は分類を表しているから、この部分を『科』と表してしまえば良いのでは!」と閃いた人がいたのでしょう。結局そうした経緯で

「science」の訳語 : 科学

「学」の訳語      : 学問

となったのです。ですから答えは「同じもの」です。そして元々の「学」という単語は忘れ去られていったのでした。今の日本人で「科学」「学問」という言葉は普通に使っても、本来の意味で「学」という言葉を使う人はいないと思います。使われるとしたら意味を広げた上で「学がある」などの用法が残っているくらいです。

これはほんの一例ですが、こうした言葉は実は沢山あります。だから「日本語のお家芸」といえるのです。とはいえ、こうした言葉の再定義は意外と難しいのですが、今後も含めての課題となっています。

先日『Witchcraftの用語集』を書こうと思い、実際に書き始めてみたのですが、書き始めると原題のWitchcraftの用語はキリスト教の用語と混ざってしまっていたり、一般的な英和辞典に出ている意味とは違った意味が多かったり、果ては日本独自で意味が発展してしまったものがあったりで、どうしても「再定義と解説」が必要になってしまいます。結局そうした部分を丁寧に埋めて書いていこうとすると、もうこれは『用語集』ではなくて『Witchcraftの実用的用語解説集』になってしまいそうです。でも、そういう用語集はきっと今後必要とする人が出てくると思いますし、Witchcraftが日本に輸入された初めの頃からを、全てがリアルタイムでないにしても(リアルタイムで当事者だった人たちとの直接の交流などの中で)、大体を体感している私のような世代がまとめていくのは一つの義務なのかな、とも思っています。そしてその用語集にまた新しい意味を加えたり、書き直してくれる人がその後の世に出てきてくれれば良いな、と感じています。

魔女の呪文や祈りは日本語でよいのか? (原題:日本人と外国語)

 私は高校の頃、国語は得意でしたが英語はどうにも苦手でした。中学生の頃は良かったのですが、中学3年生の時に半年以上入院してからまったくわからなくなってしまい、わからなくなったらまったく面白く無くなり「なんで日本に住んでいる日本人が英語なんかやらなければいけないのだ?どうせ一生そんなに使うことはないのに」(将来インターネットなどが現れるなど予想もしていなかった……)とうそぶきながら、完全に捨て去りました。

そんなこんなで私の英語力は年々ひどくなり、高校2年の誕生日に国語の先生に英単語集をプレゼントされたり、高校3年担任だった英語の先生には放課後呼び出され、涙ぐみながら

「正直に言ってくれ… お前、俺のこと… 嫌いか?他の科目はそれなりなのに、英語だけここまでひどいというのは……俺のせいか?」

と言わせてしまうほど追い詰めてしまったり、挙げ句には同じ試験問題で7回卒業試験を受けどうしても30点が越えられなかったので、採点後に先生が無言で消しゴムを手にとり私の名前を消し、

「名前をローマ字で書け、それで30点超えたことにしてやる」

と、言われて卒業させてもらいました。

そのくらい英語はダメでした。

その数年後、ある大学で英語を教えている先生に出会うきっかけがありました。ちょっとしたご縁で、その先生に教えて頂いた(しごきまくられた)おかげでとりあえず、人並みの語学力にしていただきました。ずいぶん後でその先生が英語学のある分野では「謙遜しても世界トップ3」だということがわかり心底びっくりしましたが、人生で出会った先生の中で一番厳しかったと同時に、一番学問の面白さを教えてくれた先生でもありました。その後、その先生の紹介で国文学の先生のところにもしばらくご厄介になったりもしていました。

そのような感じで結果的に比較言語の世界に数年身をおいていましたが、そこで学んだことはいくつかありました。

一つ目は、自国の文化や言語を大切にできない人は外国語をいくら勉強してもまるでダメ、という真理です。自国の言語などを大切にできない人はいくら外国語ができても所詮は「本人が外国語が得意と思っているだけ」で結局ものにならないということです。人間は母国語でものを考えるようにできています。なので、母国語を大切にし、その背景にある文化を大切にしなければ考えるベースがない状態で外国語を弄んだところで、書く内容も、話す内容も薄っぺらく、読解力にしても文字面を追っているにすぎないのです。これでは精々が高性能な翻訳ソフト人間、という感じでしょう。

二つ目は、自国の文化や言語を軽んじるか、あるいは外国のそれを自国のものよりも価値があると思っている人も、いくら外国語ができてもダメだということです。簡単な例を挙げると語学を習うなら全員外国人がよいと思っていたり、外国に行くことがなにより大切(もちろん、留学はどんな場合でも得る物があることは十分認めていますが)だと思っているような人は自国のことを学ぶより、外国語や外国文化を学ぶことの方に、より価値があると思っている傾向があります。こうした人もやはり性税が翻訳ソフト人間です。言語が人と人をつなぐものだということが頭から抜けているのです。相手の言葉を理解し、相手に自分のことを理解させるのに言語だけ立派でもダメなのです。

ずいぶん前の話になりますが日本の外交官が柿本人麻呂について尋ねられて、まったく答えられずに国際的な恥を書いたということがありました。外国人、特に知識階層の外国人は自国の文化を大事にしています。そして当然のこととして、外国人である私たちも同じように自国の文化を大事にう誇りを持っていると信じています。だから当たり前のこととして、日本人なら誰でも源氏物語や柿本人麻呂、浮世絵などについては深い理解をしていると信じています。

今の若い人(基準としては生まれたときから携帯電話があった世代以降の人)たちはCDが当たり前にある世の中に生まれ育っているのでいくらでも音声教材が手に入ります。また学校にもネイティブの先生に触れる機会が全国に普及しています。だから昔の日本人(私もそうです)に比べてけた違いに平均的な英語力は上がっています。しかし、それに反比例するように源氏物語や柿本人麻呂について説明できる人は減っています。

日本のような島国ではなく、地続きで他国とつながっているような国の人になればなるほど自国の文化を大切にしています。もちろん、島国だからというのは言い訳にもなりません。例えば英国人などもこの例外ではないからです。逆に自国の文化を大切にしない人は外国では軽蔑対象にしかならないのです。ですから、どんなに外国語を勉強しても、自国の言語や文化を大切にしない人はその外国語の知識や技術は学国に恥をさらしにいく準備をしているに過ぎません

三つ目は今までお話したことのベースでもありますが、自国の言語と文化を大切にしていなければ外国の言語と母国語の対応が単語集形式にしか頭の中で対応できず、言語の持つ奥深さを理解することが決して叶わず、所詮は薄っぺらな言語認識になってしまうのです。言語認識が薄っぺらいものだと、その人の語る言葉には人を動かす力が当然ありません。

これらについてはきちんと述べようとすればそれだけで一つ一つがかなりの分量になってしまいますので今回は軽く目次的な触れ方にしますが、これについても魔女として日本で生きていくには色々と重要な部分があります。

例えば、スペルなどの時の祈りの言葉や呪文を「自分の言葉として唱える場合」にはやはり日本語で唱える方が効果的である、という事の理由と根拠はこうしたところにあるのです。

こうした一見、魔女とは無縁のことが、日本で魔女を実践していく上では本質的に大切なことにつながっている、ということは色々とあります。機会をみてこうしたことも少しづつ書き足していこうと思っています。