仕事がら、助けを求めてこられる人や何かを教えてほしいと来る人は多いのですが、基本的に私はそうした人が真剣で熱意を持って来てくれるなら利益などは考えたことがありませんし、持ち出しでも不満を持ったことはほとんどありませんでした。
でも、それを利用しようとする人がいることもまた事実です。とはいえ、私は基本性善説で動いているので、大体が終わった後に利用されたことに気がつきます。世の中の標準的感覚でいえば馬鹿です。でも、それはそれで性分と諦めている部分もありますが、年とともに段々色々と無理が利かなくなってきました。
何だかんだいいつつも今まで色々赤字前提で活動してきたし、それ自体後悔もしていないけれど、そろそろ限界を超えすぎたかな、と。労力的な赤字はまだ大丈夫だけど、資金的な赤字はもうそれを産める労力を最初から見込む覚悟できるほど体力的にも余裕がなくなったな、と。宗教者でも霞で生きては行けないわけで。この辺が辛いところですね。若い頃はそれでも無理が利いたので、赤字が出た分、他の仕事を増やして何とかしてきたわけです。ようやくそれができない年齢になってこんなことをまじめに考え始めたわけです。
どうも日本人は正当な報酬や必要経費(当然の話として時としてそれは高額にもなりうる)ですら認めず、お金に拘らないことが美徳のように考える人が多数派を占めているように感じます。
何というか、前述の多くの人たちは本当はお金を欲しがっているくせにお金を悪者にしたり、お金を汚いもののように扱います。特に日本人はサービスにお金を払う習慣が歴史的に乏しいので、形のないものや、本質に形がないもの(例えば知識など)に料金が発生することを殊更悪者扱いしたりもします。
私は教職員としての生活も長かったし、色々な教育機関で校長など、経営側にもいたので実感するのですが、例えば法外な価格の講座なら非難されて当然ですが、いくつもの講座を希望した場合に結果として高額になると「高い」と非難されることは良くありました。だったら削れば良いのに、と思うのですが、どうも「目の前のサービスは削りたくない、お金は節約したい」という人は多く、そこに「運営側のコストがどれだけか?」などということは度外視で自分の欲求だけで考えられてしまうのです。これは、他のサービスにおいても、よく見られる現象だと思います。また、そうした事例を第三者的に眺めながら外野から「こんなにかかるなんて……」などと非難する人もコソコソ出てきます。そうしたことを今まで色々な人で見てきて言えることは
「お金のことに一見潔癖症的な人ほどお金にとらわれている」
ということです。これを言い換えれば
「そういう人ほどお金がなくなると深刻になる」
とも言えます。
逆に言えば、私も法外な値段を吹っ掛ける商人は大嫌いですし、時として正面から敵対しますが、どんなに高くても適正価格なら納得して支払いますし、それに文句を言う人がいたら「あなたが間違っている。コストを考えなさい」と言います。もちろん、実体のある商品に関してでも、サービスに対してでもです。
それに私は阿漕な商売などでなければお金を稼ぐことも、お金自体も全面的に肯定しています。そしてコストは誰の利益でもないので、それが例え高額であろうとも正当なコストを請求するのは当然だと思っています。(と、いいつつ、前述のように今まで経費持ち出しが多かった事を指摘されれば肩をすくめるしかないのですが……)逆に言えば、正当な理由なくコストが明らかにできない実費は詐欺です。また正当な理由があったとしても、その実費が正当であるという説明をする必要はあるでしょう。
私にはそういう意味での「お金に対しての潔癖症」というのはまるでありません。
その上で言えば、私自身、現実に病気になり、仕事もできず、当たり前ですが収入が0になり、役所の方から生活保護を勧められるほどに困窮したときですらお金がないことで深刻な気持ちになったことがありません。もっと言えば、少なくても私はお金に振り回されて生きたことは一度もありません。どんなにお金がない時でも、事業関連で億単位のとんでもない借金を抱えた時でも、深刻な気分になったことがありません。
これって、お金に対して潔癖症の人と私、どっちが本当はお金にこだわっているのでしょう?もっと言えばどっちの方がお金に支配されて生きているのでしょうね?
それで、最近思うのが、私が人に望まれるサービスを提供するに当たって、最低限のコストは最初からきちんと請求しよう、と思い始めたのです。魔女関係でもそうです。今でも私は魔女が魔女志願者に手ほどきをするに当たってそこに利益が存在してはいけないと思っています。これはやはり死ぬまで変わらないと思います。しかし、今までは完全無償どころか教材費など全部持ち出しでやっていました。しかしその結果、最後までそれに応えてくれた人は数えるほどしかいませんでした。とはいえ、今まではそれで私が納得してやってきたことだから良いのです。しかし、前述したように私もだんだん無理が利かなくなってきました。そこで思ったのが
「私が無理をして、途中で続けられなくなったらかえって迷惑をかけるのでは?」
という事でした。
なので、「School of Witch」でも必要経費を受講料としてお願いすることにしました。これからは何を始めるにしても持ち出しはなしにしようと思います(とはいえ、実は今の段階では受講生の方にも色々協力をしていただきながら手作りの運営をしているので実費の一部はこちらで負担しています。でも、これもシステムが完成したらコストから考えて適正な受講料になる予定です)。それが逆に私の提供するものを利用してくれる人を途中で放り出したりしないですむ方法になりますし、やがて私亡き後、跡を継いでくれるであろう人たちにいわれのない負担を受け継がせなくてすむということにもなります。この最後のは実はとても大事です。
自分が死んだら全て終わり、ならばどんな馬鹿なやり方でも自由です。でも、自分が死んだ後も何かを残そうというなら、それを受け継ぐ人に不要な負担を残さないようにするのも始めたものの責任です。
コスト計算もなしにサービスにお金がかかることを表でも裏でも非難したり、それ以前に悪く思ったりするだけでも、そうした人は基本的に自覚の有無は別として無責任ですし、自分のやっていることが所詮自分の死で全てが消える程度と評価している人なのです。そしてそういう人は当たり前ですが、未来に責任を持つ気がないのです。
こういいきると反論したい人は沢山いると思います。でも、お金の価値は時間が形を変えたもの、ということを考えれば、どんな反論も意味を失うのは明らかです。