2021年7月12日月曜日

お金の話、コストの話

 仕事がら、助けを求めてこられる人や何かを教えてほしいと来る人は多いのですが、基本的に私はそうした人が真剣で熱意を持って来てくれるなら利益などは考えたことがありませんし、持ち出しでも不満を持ったことはほとんどありませんでした。

でも、それを利用しようとする人がいることもまた事実です。とはいえ、私は基本性善説で動いているので、大体が終わった後に利用されたことに気がつきます。世の中の標準的感覚でいえば馬鹿です。でも、それはそれで性分と諦めている部分もありますが、年とともに段々色々と無理が利かなくなってきました。

何だかんだいいつつも今まで色々赤字前提で活動してきたし、それ自体後悔もしていないけれど、そろそろ限界を超えすぎたかな、と。労力的な赤字はまだ大丈夫だけど、資金的な赤字はもうそれを産める労力を最初から見込む覚悟できるほど体力的にも余裕がなくなったな、と。宗教者でも霞で生きては行けないわけで。この辺が辛いところですね。若い頃はそれでも無理が利いたので、赤字が出た分、他の仕事を増やして何とかしてきたわけです。ようやくそれができない年齢になってこんなことをまじめに考え始めたわけです。

どうも日本人は正当な報酬や必要経費(当然の話として時としてそれは高額にもなりうる)ですら認めず、お金に拘らないことが美徳のように考える人が多数派を占めているように感じます。

何というか、前述の多くの人たちは本当はお金を欲しがっているくせにお金を悪者にしたり、お金を汚いもののように扱います。特に日本人はサービスにお金を払う習慣が歴史的に乏しいので、形のないものや、本質に形がないもの(例えば知識など)に料金が発生することを殊更悪者扱いしたりもします。

私は教職員としての生活も長かったし、色々な教育機関で校長など、経営側にもいたので実感するのですが、例えば法外な価格の講座なら非難されて当然ですが、いくつもの講座を希望した場合に結果として高額になると「高い」と非難されることは良くありました。だったら削れば良いのに、と思うのですが、どうも「目の前のサービスは削りたくない、お金は節約したい」という人は多く、そこに「運営側のコストがどれだけか?」などということは度外視で自分の欲求だけで考えられてしまうのです。これは、他のサービスにおいても、よく見られる現象だと思います。また、そうした事例を第三者的に眺めながら外野から「こんなにかかるなんて……」などと非難する人もコソコソ出てきます。そうしたことを今まで色々な人で見てきて言えることは

「お金のことに一見潔癖症的な人ほどお金にとらわれている」

ということです。これを言い換えれば

「そういう人ほどお金がなくなると深刻になる」

とも言えます。

逆に言えば、私も法外な値段を吹っ掛ける商人は大嫌いですし、時として正面から敵対しますが、どんなに高くても適正価格なら納得して支払いますし、それに文句を言う人がいたら「あなたが間違っている。コストを考えなさい」と言います。もちろん、実体のある商品に関してでも、サービスに対してでもです。

それに私は阿漕な商売などでなければお金を稼ぐことも、お金自体も全面的に肯定しています。そしてコストは誰の利益でもないので、それが例え高額であろうとも正当なコストを請求するのは当然だと思っています。(と、いいつつ、前述のように今まで経費持ち出しが多かった事を指摘されれば肩をすくめるしかないのですが……)逆に言えば、正当な理由なくコストが明らかにできない実費は詐欺です。また正当な理由があったとしても、その実費が正当であるという説明をする必要はあるでしょう。

私にはそういう意味での「お金に対しての潔癖症」というのはまるでありません。

その上で言えば、私自身、現実に病気になり、仕事もできず、当たり前ですが収入が0になり、役所の方から生活保護を勧められるほどに困窮したときですらお金がないことで深刻な気持ちになったことがありません。もっと言えば、少なくても私はお金に振り回されて生きたことは一度もありません。どんなにお金がない時でも、事業関連で億単位のとんでもない借金を抱えた時でも、深刻な気分になったことがありません。


これって、お金に対して潔癖症の人と私、どっちが本当はお金にこだわっているのでしょう?もっと言えばどっちの方がお金に支配されて生きているのでしょうね?


それで、最近思うのが、私が人に望まれるサービスを提供するに当たって、最低限のコストは最初からきちんと請求しよう、と思い始めたのです。魔女関係でもそうです。今でも私は魔女が魔女志願者に手ほどきをするに当たってそこに利益が存在してはいけないと思っています。これはやはり死ぬまで変わらないと思います。しかし、今までは完全無償どころか教材費など全部持ち出しでやっていました。しかしその結果、最後までそれに応えてくれた人は数えるほどしかいませんでした。とはいえ、今まではそれで私が納得してやってきたことだから良いのです。しかし、前述したように私もだんだん無理が利かなくなってきました。そこで思ったのが

「私が無理をして、途中で続けられなくなったらかえって迷惑をかけるのでは?」

という事でした。

なので、「School of Witch」でも必要経費を受講料としてお願いすることにしました。これからは何を始めるにしても持ち出しはなしにしようと思います(とはいえ、実は今の段階では受講生の方にも色々協力をしていただきながら手作りの運営をしているので実費の一部はこちらで負担しています。でも、これもシステムが完成したらコストから考えて適正な受講料になる予定です)。それが逆に私の提供するものを利用してくれる人を途中で放り出したりしないですむ方法になりますし、やがて私亡き後、跡を継いでくれるであろう人たちにいわれのない負担を受け継がせなくてすむということにもなります。この最後のは実はとても大事です。

自分が死んだら全て終わり、ならばどんな馬鹿なやり方でも自由です。でも、自分が死んだ後も何かを残そうというなら、それを受け継ぐ人に不要な負担を残さないようにするのも始めたものの責任です。

コスト計算もなしにサービスにお金がかかることを表でも裏でも非難したり、それ以前に悪く思ったりするだけでも、そうした人は基本的に自覚の有無は別として無責任ですし、自分のやっていることが所詮自分の死で全てが消える程度と評価している人なのです。そしてそういう人は当たり前ですが、未来に責任を持つ気がないのです。

こういいきると反論したい人は沢山いると思います。でも、お金の価値は時間が形を変えたもの、ということを考えれば、どんな反論も意味を失うのは明らかです。

2021年7月11日日曜日

神・女神の御姿

 まれにですがまったく別々の人たちから同じ質問を頂くことがあります。今回もそのようなことが3件続けてありました。

「神は簡単に姿を見せない。見せるとしたら服の一部や親しい人や知人の姿で現れるという話が本当か」

という質問でした。

これに関しては私は「経験上違う」と即答かつ断言しました。本当の神や女神はオリジナルの姿でおいでになります。実際、私は神ご自身が自画像を描いてくださったのを見ていますし、許可を頂いて写真も撮ってきました。そしてその自画像はそれまで何度か拝見した神のお姿にそっくりでした。でもその自画像と似た知り合いなどはいませんし、その神様とご縁のある方に見てもらっても似た人がいるという話は聞いたこともありません。

ではなぜ、見え方が違うという話が出てくるのでしょうか? それは霊能力等、そうした本来見えないものが見える能力のある人は、その人の合わせられる波長(周波数みたいなイメージ)によって見えるものが違うところから来るのだと私は考えています。ですから、上記の説は神と思って違うものをみている場合の話なのではないかと思います。本当に見える人たちの中でも、自分が何をみているか正確に分かっていないのに、なまじしっかり見えるものだから早とちりして確信を持っている人が多いのも事実です。逆に言えば、一度本当に神や女神を見ることができれば、その後は間違いようがないと思います。

ところで話はずれますが、この波長の問題というのは面白く、見える人であることは前提とすると「見やすい波長は人によって異なる」という事実があります。

本当はもっと細かく色々ありますが説明を簡単にする為に物凄くラフな分類をして説明すると

神・女神

  ↑

人間の霊体

  ↑

動物霊

と、いう序例があるとします。ここで、動物霊と波長があう人はその上を見る事ができません。しかし、ここで、人間の霊体が見えるように(つまり上手く波長を合わせることができるように)なると、今度は人間の霊体ばかりを見るようになります。動物霊は「見る気なら見える」という状態になります。そして神や女神が見えるようになると今度は人間の霊体も「見ようとしてみる」という感じに変わってきます。

ようするに、序列が上のものが見えるようになると基本的にそこに波調を合わせようという状態になり、それより下の序列のものは意識しないと見えにくくなるのです。もちろん、意識すればちゃんと見えます。

とはいえ、実際問題として、最初のご質問にあったような説をお話になる方にこの説明をすると多分怒られます(笑い

でも、オカルト関係に関わらず、parapsychologyやmetapsychologyといった日本ではあまりなじみがないけれど国際的には一般的な学問分野でも、一般論としてこのような考え方があるということは事実ですので知っておいて損はないと思います。

2021年7月9日金曜日

魔女の質問箱

Oriental WiccaとSchool of Witchのサイト更新や手直しに追われてこちらのブログはすっかりさぼってしまっていました。

さて、このOriental Wiccaのサイトは最初は結構気楽に今までのサイトの文章を少し手直ししてつくればよいだう、くらいの気持ちで始めたのですが、始めてみたらとんでもない、文章が古くなっていたり、今の時代にそぐわなくなっていたりで大幅改訂を越えて全面改訂が必要なものがほとんど。結局位置から作り直すくらいの仕事になってしまいました。

しかし、その作業が一段落してから見直すと、中身が大幅にアップトゥデートされたとはいえ、内容の目新しさは少なくても目立つ感じにはありません。「30周年を謳っていながらこれではなぁ……」と思い、3分ほど思案。そして

「ああ、そうだ。この30年の間で色々な形で応えてきた質問と回答をまとめてみよう」

と思い立ちました。

ところが、実際始めてみるとこれが結構難しいのです。この手のQ&Aのコーナーというのは面白いコンテンツである反面、ちょっと独りよがりになると途端につまらない物に成り下がります。2~3本書いてから「どうしようか?続ける?全部やめる?」としばし考え込みました。しかし、しばらく考えてから「30年という期間に受けていた質問と回答の中には多少は役に立つものもあるだろう」と急に吹っ切れて続けることにしました。

しかし、これは本当に回答者である私の考えが読み直すと結構強く前面に出ていて「うーん、これでいいのか?」とまたちょっと考えました。とはいえ、考えてみたらそもそも私は自分が書いた文章をあまり読み直すタイプではありません。「自分で読み直さなければ自分は恥ずかしくない!」という真理を発見するに至りました(笑い

そんなこんなで、このコーナーしばらくは続きそうです。でも、ある程度たまったら「私家版Witchcraft Q&A集」くらいにはなりそうな気配です。

2021年6月7日月曜日

新ホームページ

 Oriental Wiccaの30周年を記念してホームページのリニューアルと新規ドメインによる運用、Oriental Wiccaによる魔女の通信講座「School of Witch」のサイトの新規ドメインによる運用が開始されました。

サイトアドレスなどは

Oriental Wicca

School of Witch(魔女の通信講座)

です。

 Oriental Wiccaのホームページはかつてのホームページの簡単なコピペによる移行をすればいいや、とタカをくくっていたら

「ん?この原稿10年前?」

「え?これって……20年前……」

「10年前にやめたものについて『これから頑張るっっ!』と書いてある……」

等々。

とてもそのままではアウトな内容でした。

さてここから改訂作業。ところが年末の大片づけをしている時についつい手にした本を読み始めてしまうように、全然進まない……

結局、かなりの部分の書き直しになりました。

逆に「祈り」についての関連文書はほとんど直しなし。こういうところは昔も今もぶれていないな、と妙に納得したり、進歩がないのかと不安になったり(笑い

そんなこんなでこの数日、改訂作業に忙殺されていましたがようやく昨晩完成、本日ツイッター含めいろいろなところで告知させていただく運びとなりました。

ただ、時代にあわないものなど大幅にカットした部分もあるので、これから少しづつ記事を足していこうとしみじみ思いました。

2021年6月4日金曜日

オーラ、霊能力など

「魔女になるとオーラが見えますか?」

「魔女になると霊能力が身につきますか?」

と、いう質問を受けることがあります。

結論から言えば、

これは「魔女になると箒で空を飛べますか?」

と、いう質問と大差ありません。魔女になったからといってそういう能力が身につく、などということはありません。

ただ、箒で空を飛ぶのと違うのは、オーラを見たり、霊能力を身につけたり、ということをしている人は実際にいる、という違いはあります。

これらの能力を持っている人は、生まれつきこうした能力を持っている人が多いようです。また、修行や訓練をすることでこれらの能力を身につけた人もいます。しかし、これは「魔女とは無関係」です。魔女の訓練や修行には基本的にそういう訓練や修行は通常の場合ありません。もちろん、そうした能力を元々持っていたり、何かの拍子に身につけてしまい、その力に振り回されてしまっている人に「力のコントロール法」を教える事はあります。また、中途半端な能力でかえって不都合がある場合はその能力をさらに強める訓練をしてコントロールほうを教える事もあります。

繰り返しますが、これは魔女とは基本的には無関係です。魔女でもそうしたことをしない人も多くいます。私に関して言えば、私自身がたまたまそういう技術を知っているから必要ならばそれに応じてお教えするくらいで、それだって積極的に、ということはありません。ましてや霊能力を身につけたい、という人に手ほどきをする、などということはまったく無意味で無価値だと思っているので、方法は知っていても(知らないとコントロールを訓練することができないので)決して人に教えたりはしません。

ちなみに悪徳商売をはじめて儲けよう、というのでなければ霊能力というものは邪魔になることはあっても役に立つというものではありません

時々、特に占い師の方やスピリチュアル系のよく分からないことをしている人に多いのですが

「自分は霊能力がある」

「自分は人に見えないものが見える」

など、簡単にまとめれば

「自分は特別な力を持っている」

と確信している人がいます。自分が確信している分にはその人の自由ですから(例えば、自分が「誰もが認める美少年や美少女だ」と信じていても人に迷惑をかけなければ問題ありませんよね?)、別に構いません。

ところがそうした人たちで困るのが「自分以外もそれを当然のこととして認めている」という確信の元、話を振ってくる人たちです。また、それによって人にえらそうに講釈を垂れて不安にさせたり、謎の優越感に浸ったり、それに見合う尊敬と尊重を求めてきたりする人もいます。これは本当に厄介ですし、害悪があります。そもそも、自分でそう信じている人というのは大抵は、いえ、私の知る限り全員が

「何もそうした特殊能力がない人」

というのが現実です。現実的な社会での強みがなく、大した努力もせず、自分の言動に責任を持てないのに自分が責任感のある人だと信じていたり、そうした人だから誰にもまともに相手にされないのに周りが悪いと思っている人などが「最期の拠り所」(最「期」は誤字に非ず)としてそうした特殊能力にすがっている、というのがそうした人たちに程度の差こそあれ共通するパターンです。私のような仕事をしているとそういう人に(最近はコロナのおかげで激減していますが)毎月数人は裂けていても出会ってしまいます。そうした人に「私たちは……」と同類に扱われる苦痛といったら……

思わず「私はあなたのような妄想もないし、幻聴もないし、幻覚もありません」といいたくなるのを抑えるのがどれほど大変か、その素晴らしい想像力で察してほしくなります。

霊能力など来特殊能力は上記のようですが、オーラとなると話はちょっと違ってきます。

オーラを見るということは、それが人でも、ものでも、動植物でも健康状態や生命力をみるという意味で役に立つ事があります。ですから、オーラの見方、は私も人にお教えすることが結構あります。

ただ、この「オーラが見える」というのも問題がないわけではありません。

特に、生まれつきオーラが見える人は「オーラが見える」というだけで自分には特殊な能力や才能があると勘違いしてしまう人が結構いるからです。

また、かりにオーラが見えてもそれがどういうことを意味しているのか細かい事を判断するのは相当の知識と訓練が必要ですし、ましてやオーラを調整するなどというのは他のエネルギーワークなどが完全にできていないと話になりません。オーラの調整は基本的にエネルギーワークですから「オーラが見える」というだけではまったく話にもならないのです。

ところがテレビなどの影響でしょうか、「オーラが見える」というだけで「オーラの調整をします」などといって怪しげなことをいったり、したりしている人が最近増えてきているような気がします。これは何も役に立たないどころか、かえって悪化させてしまったりすることのほうが圧倒的に多いのです。ちょうど、「解剖図を覚えたから」といって素人が「手術をしてあげます」と言っているようなものなのです。

どんな能力も、どんな力も正確なコントロールできてはじめて「使える能力」といえるのです。これは当たり前のことで、たとえば自動車を動かすことは、キーを回して、アクセルを踏めば小学生でもできますが、きちんと運転することはできないのと同じ事なのです。

逆の例もあります。きちんとオーラが見えているのに、それが何だか分からず「自分はおかしくなっている」と悩んでしまっているタイプの人です。こうした人は本当に気の毒です。ただ、妄想タイプの人たちと違って自分から話に来てくれないのでなかなか手助けさせていただく機会がないのも事実です。

2016年に「立て続けに何件もこうした質問を何人もの方からお受けしたので、一度私なりの考え方を書いておくのもよいかな、と思って簡単にまとめてみました」と断って書いたものに加筆訂正をしましたが、今となっても削る部分はなかったのでいつでも同じだな、としみじみ実感しました。

2021年5月30日日曜日

伝統というもの(3) ~新しいものは全て謀叛である~

伝統は上書きされるものではなく、付け足され続けるものだ、という話を書きました。ところで魔女を名乗る人の中には時々妙に「自称革新派」のような感じの人が出てきます。

「自分たちが新しいものを創りだす」

「自分たちが今までの古い体質を打破する存在だ」

というような感じです。

これが伝統に新しい物を付け加えていく、という意味なら素晴らしい話です。しかし、こうした人の魔女観をよく聞いていると、必づしもそういうわけではなく、どうも海外で多い「魔女=rebel」というイメージがメインになっていることが多いようです。これは国の内外を問わず、私が実感してきた中でもそうした考えを声高に主張する人が現れては消え、また現れては消え、という歴史の繰り返しだったような気がします。

そして、そういう人はどの時代であっても、それを誰かから批判されたり、あるいは疎外されたと感じたりするほど、それこそが「自分たちが本物である証拠」という感じになってしまうことが往々にありました。

もっとも、これは魔女に限らず、どんなジャンルでもそういう思いに突き動かされる人は存在してきましたし、そうしたカルト(否定的な意味ではありません。伝統について(2)を参照)やセクトが現れては消えて行ったのも歴史の中でよく見かけるもので、それと同質のものなのです。日本の学生運動や市民運動(これもよくわからない言葉ですが、それはさておき)の歴史などを見ても、同様の波を見る事ができます。

私自身、若気の至りで10代後半から20代前半の頃、蘆花の言う謀反人気取りで愛国ゆえの左翼活動をやっていた事もありました。だからジャンルを問わず革新的な考え方にそれこそ熱病のように浮かされる心情はとてもよくわかります。分かるどころか、それはそれは、痛いほどに理解できます。

こうしたものは麻疹のようなもので20歳前後までにかかって、そして卒業するのがある意味健全なのだと感じます。今そうしたものに「かぶれる」対象がどのくらい世の中にあるのか?という問題はありますが、もしそうできる対象があるのなら、それはそれで若いうちにしっかり「かぶれて」おくのはぜひ経験しておくべきことでしょう。でも、そうした若さゆえの熱狂のようなものに動かされ、酔っていてもよいのは「やはり若いうち」なのだと思います。ある程度の、つまり青少年という年代ではなくなってからそれをやっているのはちょっと厳しいものがあります。砕けた言い方をしてしまえば

「いい年して、しかもこの時代に、というのはダサくて痛いでしょ」

という一言につきてしまうのでしょう。麻疹と一緒で大人になってからだと重症化して後遺症を残すような感じかな、というのは言い過ぎと言われるかもしれませんが正直な感想です。

閑話休題。

結局、反逆とか謀反というのは、絶大な強敵が「体制として存在すること」が必要なのです。それに徒手空拳で立ち向かう「自分のドンキホーテぶり」に無自覚かどうかは別として酔っているからこそできる部分というのも結構あると思うのです。例えば、海外の魔女ならその流派を問わず、キリスト教という絶対的な体制があるわけで、だからこそ「反逆者としての魔女」つまり「魔女=rebel」というイメージが成立しうるわけです。そしてそれゆえに、伝統に抗う事も反逆にも似た感情に流されて行くのでしょう。

ところがそもそもの話ですが、魔女に限っていえば日本ではそれができないのです。なぜならそれほどの強敵がそもそもいないからです。

さらにいえば、魔女に限らず、日本ではこうした革新的なものは「できないに等しいくらいに難しい」のです。だから、政治活動でさえも戦後から昭和の後半くらいの時代のような先鋭化ができなくなったわけです。そもそも学生・市民左翼運動がそれなりに存在しえたのは中曽根政権までです。逆に言えばそれ以降の自民党政権などは「反逆や謀反の対象」として相手不足になってしまったからなのです。

ましてや魔女の世界で、魔女同士で、伝統と革新などというのは、ちょうど思春期の子どもたちに見られるあの背伸びしがちな言動や態度が過剰に出ているようなものなのです。

なので、今日本で反逆者は謀反人になるのは極めて難しいと思います。ジャンルを問わず、ですが。そうした話題を考えるに思うのは、誰がどの分野であっても「自分の中に革新というものがある」と思うなら一度、徳富蘆花の『謀反論』などを最低限読んで欲しいと思います。そして反逆者、謀反人になるには芯が通っている上で命がけでの覚悟すら時として要求されるということを一度は学んでほしいと思います。

ただ、現代日本においてそれほどの対象が今の世の中にはほとんどない、ということもわかって欲しいと思っています。

(それはそれで私にとっては心底寂しいことなのですが・・・)

私自身、革新から保守へと自分自身が変節していく経験をしました。しかし、それは決して芯がぶれたわけではなく、成長していく中で

「方法論として変わっていった」

にすぎません。

もしかすると革新から革新的保守、過激思想から過激な穏健派への成長という感じなのかもしれません。この辺の感覚は(1)(2)とこのブログで書いた私の伝統というものの理解を参照して頂けるとわかっていただきやすいかもしれません。

これからも、それこそ世紀をいくつ超えても、国内で、あるいはもっとグローバル化された時代には世界で、同じように「自称革新派」の人達は様々なジャンルで出てくるでしょう。そうした人たちは自分の芯がどこにあるのか?ということを問い直してくれればいいな、と思っています。そして変節を恐れず、その芯に忠実にあって欲しいとも思います。

そんなことを話、考えながら

「私もまだまだ老いるわけにはいかないな」

とちょっと思いました。

ともあれ、徳富蘆花の

「新しいものは常に謀反である」

という言葉の深さと重みをしっかり噛みしめつつ、また、若い人たちと一緒に噛みしめながら、私自身まだまだ「謀反人」であり続けたいな、とも思うのでした。
本当の謀叛は歴史に跡を残します。そしてまたその上に次の謀叛が刻まれるのです。その繰り返しの中で伝統は新しく進化していくのです。

2021年5月26日水曜日

伝統というもの(2)~僕らの世代の敗因~

 前回「伝統とは常に更新されなければならない」ということを書きました。そして、更新されない伝統は博物館の展示物のようなものにすぎず、古典的価値はともかくとして使い物にはならない、そんなものになってしまう、ということも書きました。

伝統を更新することについて多少の具体例を挙げて説明をしましたが、今度はもう少し大きな視点でこのことを書いてみます。

革新もしくはそれに近いキーワードでくくられる人たちの中には「伝統」や「伝統を大事にする人」あるいは「伝統を大事にする行為」自体を否定したり、古いは時代遅れと決めつける人がいます。しかし、それでは伝統を更新するのではなく、単に

「伝統を理解できずに反抗期の子供のようにいきがっているだけ」

というのがほとんどです。

こういうことを言うと「伝統なんかわかっている。その上で自分たちはものを言っている(もしくは活動している)」というような反論をされることがままあります。しかし、そういう人に伝統をどれだけ理解しているのかを具体的に問うと、単純な知識だけで伝統に触れた気になっているのみで、その心や奥深さはまるでわかっていない場合がほとんどです。ほとんどというか、ほぼ例外なく言えてしまうことは歴史的に色々な分野で繰り返されてきたことです。

伝統を不勉強で知らないくせに知ったかぶりで新しい時代を語る人は今までも多く現れては消えて行ったのです。伝統を破壊したり、伝統を新しいものに更新するには、伝統を熟知していなければできないということに気が付かない。そして、そういう人は最後まで気が付かないのです。

こう断言すると反感や反対意見を持つ人は多いと思います。また、私のこういう姿勢を年寄りじみた古臭い考え、という人もいるでしょう。若い頃の私もそういうタイプだったのでよくわかります(笑い

でも、もし私の言うことを否定するなら、例えば、今でも60年安保闘争の学生組織が当時以上に健在でなければいけないということになります。彼らは古い体制(これはある意味伝統と同じです)を否定し、新しい体制を声高に叫び立ち上がっていたのです。では、今現在どうでしょうか。これを見ている人の何割が当時の主役たちのことを支持していますか、と問いかけたいのです。支持している、支持していない以前に、これを読んで下さっている人達のほとんどは「60年安保闘争?歴史の教科書にあった気がする……」という程度でなのではないでしょうか。

これは伝統を無視したり、伝統に対して知ったかぶりして「革新性」や「新しさ」を旗印に伝統に対して戦いを挑んだ人たちの「完璧な敗北」に他なりません。歴史の中に埋もれ、誰にも見向きもされない革新、伝統はまだ「古臭いと言われつつ存在」していますが、その伝統に戦いを挑んだ革新はその存在と記憶すら消し去られているのです。

かくいう私も伝統などを「古臭いもの」と否定し、革新の名のもとに政治活動をしたこともありました。安保闘争の主流派の流れのセクトで活動したり、のちに(これは偶然でしたけれど)当時の全学連の委員長ら幹部だった方と一緒に仕事をしたこともあります。そうした実体験や、生の話、そしてその後の実情などをリアルに体験し、見聞きしてきたわけです。その経験は彼らや私の敗因が「伝統を知らずに伝統に立ち向かったこと」であり「伝統を分かったつもりになっていたこと」だということを色々な角度から検証させることになり、それを痛いほど実感しました。

一時の熱狂は簡単です。

それを創るのも簡単です。

また、それはとても新しく活発で未来に続く素晴らしいものに見える事があるのも事実です。

また大変勢いがあり、華やかにも見えるでしょう。

でもそれは歴史の中に花火のように現れて消えていくあだ花に過ぎないのです。

根のない花はやがて無残に枯れていくのです。

結局、伝統をしっかり学び、伝統の中にしっかりと入り、伝統の堅苦しさやくだらないしきたりなどを経験し、伝統を熟知するという経験をしていない限り、伝統を乗り越えたり、破壊したり、ましてや更新して「新しい伝統を創る」ことなどできないのです。

これは魔女の世界というだけの話でなく、文学、芸術、学術、宗教、政治等々、どんな分野に対しても共通して言えることなのです。そしてそれは歴史がそれを雄弁に語っているのです。

私はあらゆる分野において声高に呼びかけたいのです。

「若人よ、伝統を謙虚に学び尽くし、知り尽くし、そして新しい伝統を創り出せ!」

と。