2018年9月18日火曜日

魔女の「花鏡」(2) 是非初心不可忘

今回は一つ目の

「是非初心不可忘(是非の初心を忘るべからず)」です。


(応永中期筆『花伝第七別紙』花伝書最終章 観世アーカイブより引用)

これはある意味一番分かりやすい初心です。これは若い時、必づしも肉体年齢で若いという意味だけではなく、自分の進む道(むろん、世阿弥は「能」の芸道を指しています)を歩み始めた頃、という意味でもあります。

そしてそうした若い頃、修行を始めた頃、失敗したり、苦労したりして身につけたものは常に忘れてはならない、ということと、入門したての頃に感じたり考えたりしたことを忘れては駄目だという事を教えています。

なぜなら、若い時分の失敗や苦労によって身につけたものは後々の成功の元となるし、これを忘れた、自分のベースを忘れることに他ならないので、無意識のうちに地に足のついていない状態になり、先々上達することができなくなってしまう、ということだと語っています。

また、人間誰しもその道のベテランになってくるとどうしてもその道に入りたての頃の感じ方や見え方がわからなくなってしまいがちなものだから、それを忘れるな、という戒めにも解釈できます。

以上が一般的な世阿弥の「是非初心不可忘」の解釈ですが、世阿弥の「花伝書」など他の著作を読んでいくとこの言葉にはもう一つ大事なことが述べられているように私には感じます。それは

「最初に是非もなく、師匠に叩き込まれた伝統的な芸の型を、後にどんなに自分なりに大成したとしても忘れてはならない。もし忘れると、それは自分のさらなる成長、進化に限界を作ってしまうことになる」

という意味です。それは芸事や武道、芸術などでよく言われる「守破離」とも関連してくるものだと思います。

ご存じの方の方が多いと思いますが「守破離」とは、師匠に叩き込まれた「型」を守り、完全に自分のものとする所(守)から始まり、その上で自分なりのさらに改良した「型」を造り上げ(破)、さらにそれらを超越し、「型」というものからすら自在になる(離)という修行の段階を示したものです。

さらに、この「離」の次にくる新たな地平は実は最初の「守」に立ち帰ることで見えてくるものなのです。なぜならそれは自分が受け継いだ伝統を更新する作業に他ならないからです。

これは魔女が自分の継承した伝統を本当の意味で、そして文字通り自分の基礎とし、時代や環境(ヨーロッパと日本、アメリカと日本などのような地理的なものなど)に合わせてよりよいものに変えていく上での大事な心構えにほかなりません。

では、次回は2つ目の初心「時々初心不可忘」です。

この「伝統の更新」について詳しい話は以前書いた「伝統というもの(1)」「伝統というもの(2)」をご参照ください。